鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

批評という檻、解釈の迷宮 ――山川賢一の初期三部作について

 山川賢一は新進気鋭の文芸批評家として、これまでに三つの単著『成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論』(2011)『Mの迷宮 『輪るピングドラム』論』(2012)『エ/ヱヴァ考』(2012)を上梓してきた。全て近年話題になったオリジナルアニメーション作品を題材にしたものであり、さらに、いずれも共通の主題を扱った論考になっていると言ってよい。それは最新作『エ/ヱヴァ考』の語彙を借りれば、私たちの正義を堕落させる「偽りのリアリティ」をめぐる問題であり、そこで経験される「ホメオスタシスとトランジスタシス」の葛藤である。

 

 簡単に説明しておけば、偽りのリアリティとは文字どおり虚偽の現実性によって私たちを閉じ込める檻であり、ホメオスタシスとトランジスタシスとはそこで経験される維持と変化の葛藤である。たとえば偽りのリアリティは、処女作である『成熟という檻』ではタイトルどおり「成熟という檻」と名指され、続く『Mの迷宮』では「全体主義」として大きく打ち出されていることが分かる。ホメオスタシスとトランジスタシスは、『魔法少女まどか☆マギカ』における暁美ほむら鹿目まどかの対比や、『輪るピングドラム』におけるピングドラムと運命日記の対比に近しい。いささか乱暴な要約だが、山川賢一が三つの著作で反復的に類似した問いに注目していること、そこに批評家としての特性が早くも現れていることは明らかだろう。

 もちろんこの共通性は、山川自身によって宮崎駿風の谷のナウシカ』の多大な影響から推測されており、ひとりの読者としては彼が新しい現代日本文化史観を描くことに期待する他ない。しかしそれ以外に重要なのは、彼が主題とする偽りのリアリティがそのまま批評上の方法論的な問題であること、ホメオスタシスとトランジスタシスもまた批評上の倫理的な問題でありうることだ。大袈裟に言ってしまえば、それは私たちが具体的な現実を往々にして抽象的な観念に閉じ込めてしまうこと、それを騙ることによって偽りのリアリティを形成してしまうことへの批判である。たとえば山川は『エ/ヱヴァ考』において、宇野常寛ゼロ年代の想像力』の語る「ひきこもり&心理主義決断主義史観を批判したのち、以下のように語っている。

「いわばこの手の流行(引用者注――俗流のポストモダン論)こそが、日本の論壇を支配する「偽りのリアリティ」なのだ。ぼくは今まで、『エヴァ』を通じてこのテーマをとりあげてきたけれど、作品設定の話だけをしてきたつもりはない。偽りのリアリティは、今もこの世界のいたるところに存在し、人々の目をくらませているのだ」(p179、p180)

 この問題が厄介なのは、いみじくも彼自身が「謎解き派」と「批評派」の乖離を取り上げているように、優れた批評は現実なしで済ますことも観念なしで済ますこともできないからだ。抽象的な主題の抜け落ちた解釈は「謎解き」であり、逆に具体的な細部を切り捨てた解釈は「恣意的な批評」でしかない、そうした厳しい批評上の方法論的課題を山川は問うているのである。ホメオスタシスとトランジスタシスの葛藤は、以上の方法論から導かれる批評上の倫理、つまり内的観念に対する維持と外的現実に応じた変化の試行錯誤でもあるのではないか。まさしく彼は、ホメオスタシスとトランジスタシスの葛藤という主題と批評における規範意識を、ともに「他者とのコミュニケーション」という観点から語ってもいるのだ。

「僕はこのテーマを主に、強すぎる信念は独善や固執を生むけれど、信念がなければ周囲に流されるだけになってしまう、というパラドックスとして論じてきた。しかしこれを私的なコミュニケーションという切り口から見れば、自己を強く維持すれば他人とのあいだに壁を作ってしまうが、しっかりした自己のない人間とはそもそも実りあるコミュニケーションはできない、というパラドックスになっている」(p198)

「批評する者にとって作家は他人だから、作品を読み込めば、必ずこちらの先入観を覆すところが出てくる。ぼくの経験では、分析の過程で最初の解釈が崩壊しなかったことは一度もない。『エヴァ』旧劇場版ではないけれど、他人を理解するのは骨の折れることなのだ。しかし難解な箇所にこだわってあれこれと頭を悩ませないかぎり、批評は作品に自分の思い込みをぶつけるだけのものになってしまう」(p218)

 自己を強く維持すれば他人とのあいだに壁をつくってしまう(≒細部を切り捨てた恣意的批評になってしまう)が、しっかりした自己のない人間とはそもそも実りあるコミュニケーションはできない(≒主題の抜け落ちた謎解きになってしまう)。言い換えれば、批評家は「最初の解釈」「先入観」なしに始めることはできないが、かといって「思い込みをぶつけるだけのもの」で終えるわけにはいかない。山川のスタイルもこの試行錯誤のなかで洗練されてきたのかもしれないが、もちろん、私は彼のスタイルが正しいとか間違いだとか言えるような立場にはない。ただ私が感じているのは、こうした問題に「あれこれと頭を悩ませる」経験こそが必要なのだということ、それを踏まえることで人は優れた批評家になるのだということである。