鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性

 東浩紀『セカイからもっと近くに』(2013)は「著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論」として書かれた。このことは翻って、エッセイ集などを除く東浩紀の著作には「文芸評論」が存在しなかったこと、すなわち文学的作品それ自体を対象にした批評がなかったことを意味するだろう。あの『動物化するポストモダン』にせよ『ゲーム的リアリズム』にせよ、その本論で扱われているのは作品の位相を下支えする環境の位相であって、作品そのものではない。かつて出版された「東浩紀コレクションLSD」の副題が明確に示しているとおり、彼の評論は「文学環境」と「情報環境」についてのものだったというわけだ。

 

 東浩紀は『セカイからもっと近くに』のなかで「セカイ系」の問題を取り上げ、現実と虚構の再縫合を試みようとしている。セカイ系の問題とは、政治的な想像力と文学的な想像力が乖離してしまったこと、要するに共同的な幻想と個人的な幻想が切断されてしまったことになるだろう。現実と虚構を再縫合するとは、政治的な想像力と文学的な想像力を再接続するということであり、共同的な幻想と個人的な幻想を再接合するということに他なるまい。東自身は「想像力と現実」「文学と現実」「虚構と現実」等を対置しているが、ここでは話を分かりやすくするために、現実などという不明瞭な言葉は忘れてしまった方がいい。さらに本書ではラカン精神分析の用語「想像界」「象徴界」「現実界」が用いられているが、ここでも話を分かりやすくするために、ジャック・ラカンなどという胡散臭い男は忘れてしまった方がいいだろう。

 ところで『セカイからもっと近くに』は、政治的な想像力(共同的な幻想)と文学的な想像力(個人的な幻想)を再縫合するための中間項を、いったいどのようなものとして構想しているのか。吉本隆明共同幻想論』を読んだことがある者なら、すぐにでも「対幻想」という答えが思いつきそうではある。いささか乱暴に要約しておけば、吉本の唱える共同幻想マルクス主義の上部構造に相当するものであり、対幻想はフロイト精神分析のリビドーに相当するものである。1968年の書物である『共同幻想論』は、政治的な想像力(共同幻想)とも文学的な想像力(個人幻想)とも異なる、言うなれば性愛的な想像力を第三項ないし中間項として据えていたのだった。果たして東浩紀もまた、個人幻想のループを乗り越えて未来に至るための想像力として、対幻想としての家族や恋愛といったものに切り込んでみせるのである。

 ここで注目すべきは、東浩紀が性愛的な想像力のうち「快楽」や「欲望」ではなく「生殖」を重視しているということである。再び吉本隆明に立ち戻ってみれば、対幻想とはなによりもまず生殖によって広がる血縁のネットワークであり、同性愛や両性愛や非性愛の問題はいったん脇に追いやられていたのだった。東および吉本にとって必要なのは、性愛の主体論的なレベル(快楽する自己、欲望する自己)ではなくコミュニケーション論的なレベル(遭遇する自己、産出する自己)なのである。それはフランス現代哲学的には、ミシェル・フーコー(快楽)でもジル・ドゥルーズ(欲望)ではなく、ジャック・デリダ(生殖)の視座に着くということを意味するだろう。政治的な想像力(共同幻想)と文学的な想像力(個人幻想)の再縫合という課題を思えば、もちろん、以上のごとき態度は妥当なものであるかもしれない。

 だが改めて述べるまでもなく、かかる図式はジェンダー論的ないしクィア理論的な吟味に曝されるものであり、吉本は『対幻想――n個の性をめぐって』において応答の必要性に駆られている。ヘテロセクシュアルの男女を特権的な立場に置く理論は、様々なセクシュアルマイノリティに関する理論とどのように両立しうるのか……このことは多くの論者にとって簡単に答えられる問題ではないだろう。以上の歴史を踏まえれば、東浩紀が単純に血縁のネットワークのみをよしとしているわけではないこと、だからこそライトノベルやミステリやアニメやSFの豊饒な想像力に依拠し、産む女ならぬ「憑く女」に美的関心を寄せているのであろうことは疑いを入れない。我々はここで、対幻想という概念が現代的にアップデートされる気配を感じ取ってもいいだろう。肯定的にせよ否定的にせよ、本書は「対幻想」を巡る歴史的認識なしには評価することの難しい書物である。

 

追補

 拙ブログに言及してくださった記事があるので、この場で応答したいと思います。

「女の子同士の不可能な出産――東浩紀の『魔法少女まどかマギカ』disを巡って」

 http://rodori.hatenablog.com/entry/2014/01/08/104633

 先の記事では拙ブログの柄谷行人柳田国男論』に関する記事を取り上げ、柄谷行人吉本隆明の上部構造論に反して下部構造を再評価していること、ゆえに柄谷行人から影響された東浩紀もまた下部構造を再評価していることなどが述べられています。つまり東がアーキテクチャと呼ぶものは下部構造に相当するものであり、彼の性愛論もまた下部構造への評価から来ているというわけですね。先の記事では、かかる図式を乗り越える思想家としてミシェル・フーコーを挙げるとともに、東浩紀の『存在論的、郵便的』のイデオロギー論を再吟味することでこれに応答する予定のようです。

 ところで私は、東浩紀『セカイからもっと近くに』において語られているのは徹底して上部構造の問題であり、これまでの「情報環境」「文学環境」についての著作とは微妙に異なるものだと考えています。ゆえに東の性愛論は、どちらかといえば下部構造というよりも上部構造への評価から来ているものではないでしょうか。

 なお先の記事で採り上げられている拙ブログの記事は、吉本隆明柄谷行人の対立を上部構造論VS下部構造論として単純化していますが、これはいささか乱暴な要約であって正確には異なります。柄谷は『トランスクリティーク』の時点で上部構造と下部構造の対立を脱構築してしまったのであり、その結果として、交換様式ABCDから世界史的段階を眺められるようになったと言うべきでしょう。もし仮に東浩紀を批評史的に位置づけるとするならば、彼という思想家は、柄谷が一元論化した上部構造と下部構造を改めて二元論化した者として捉えるのが適当かもしれません。

 むろん、私は『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版新編『叛逆の物語』を高く評価しており、そこで私の性愛観は東および吉本のそれとは大きく違っているということになるでしょう。しかし……今回はそこまで踏み込む余裕を持っていません。したがって以上をもって応答としたいと思います。