鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

アメリカのアーキテクチャ、日本のアーキテクチャ? ――濱野智史『アーキテクチャの生態系』について

 濱野智史アーキテクチャの生態系 ――情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008)は、アーキテクチャ(≒情報環境)の設計を生態系になぞらえて著述していく書物である。本書は時系列に沿いながら、インターネットという巨大なプラットフォーム(≒生態環境)を先行世代として、様々な後続世代が発生していく様子を記述していくだろう。ある後続世代は先行世代に組み込まれる「島型」として、ある後続世代は先行世代から枝分かれする「バルーン型」として、ある後続世代は新たなプラットフォームとしてそれぞれ分類されていく。このような見取り図の立て方そのものは、出版から五年以上経った今もなお注目すべきかもしれない。

 とはいえ確認すべきは、濱野が「アメリカ/日本」の二項対立においてアーキテクチャを論じていることである。初めに、インターネットから発生したウェブというプラットフォームについて押さえておこう。アメリカ型の設計においては、ウェブ上に設計されたグーグルが新たなプラットフォームになり、そこからさらにブログなどウェブ2.0とも呼ぶべき後続世代が発生していく。他方で日本型の設計においては、ウェブに組み込まれる形でBBSが設計され、そこからさらに2ちゃんねるなど独自の後続世代が発生していったのである。そしてアメリカ型のブログと日本型の2ちゃんねるとでは、信頼を重んじる個人主義と安心を重んじる集団主義との差異が明確に現れている。このことは、同じSNSであるフェイスブックミクシィについても言うことができるだろう。日本型SNSであるミクシィの特殊性を、本書は閉鎖性、強制的関心、繋がりの社会性といった言葉とともに説明している。

 次にMMO‐RPGから枝分かれする形で発生したセカンドライフと、2ちゃんねるから枝分かれする形で発生したニコニコ動画について見ておこう。アメリカ型の仮想空間サービスであるセカンドライフは、実際にユーザたちに体験を共有させる「真性同期」を採用し、それゆえに閑散としてしまったと言われている。他方で日本型の動画コメントサービスであるニコニコ動画は、ユーザたちに体験の共有を錯覚させる「擬似同期」を採用し、それゆえに人気になってしまったと言われているのである。擬似同期は真性同期とは異なり「いつでも祭り」の状態を捏造し、言わば「いま・ここ性」を複製するに至ったと言うことができるだろう。もちろん非同期の2ちゃんねると疑似同期のニコニコ動画には微妙な差異があるが、いずれも日本的な繋がりの社会性が色濃く現れた設計であることには変わりない。以上のように、濱野はその論旨の殆どを「アメリカ/日本」の二項対立において整理しているのである。

 

 しかし二項対立の図式は分かりやすいがゆえに、いくつかの疑問を読者に生じさせずにはおかない。たとえば、本書はボーカロイドである「初音ミク」とケータイ小説である美嘉『恋空』を分析し、特に美嘉『恋空』について「操作ログ的リアリズム」の到来を宣告している。しかし、ボーカロイド文化とケータイ小説文化の微妙な差異については曖昧なままである。というのも、ボーカロイドというコンテンツを支えるニコニコ動画的「疑似同期」と、ケータイ小説というコンテンツに現れたツイッター的「選択同期」との差異は、本書の「アメリカ/日本」という二項対立から外れてしまうからだ。ケータイ小説が結局のところ先鋭的文化としては退潮し、代わりに「ボーカロイド小説」なるものがひとつの流行になっている現在、私たちは両者の関係について改めて問い直すべきかもしれないのである。

 かつて柄谷行人は、アメリカなど欧米との比較において日本特殊論を語ることのイデオロギー性を指摘した。一方で彼が評価したのは、日本の日本性を中国や韓国との関係において地政学的に問うていた坂口安吾であり、身近で現実的な他者を通して自己を捉えようとする倫理的態度だったと言えよう。私たちは、今こそこのことを思い出す必要があるかもしれない。たとえば私が気になっているのは、中国のSNSや韓国のSNSとの関係において見える日本のSNSの姿であったり、そこから改めて「疑似同期」の意味について考えることであったりするのである。