鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

倫理的であること、修辞的であること。 ――西尾維新の〈物語〉シリーズについて(上)

 西尾維新の〈物語〉シリーズは、大きく三つのシーズンに分けられている。まず『化物語』から『猫物語(黒)』までのファーストシーズン、次に『猫物語(白)』から『恋物語』までのセカンドシーズン、そして『憑物語』から『続・終物語』までのファイナルシーズンである。ここで重要なのは、ファーストシーズンの物語に対する吟味としてセカンドシーズンの物語が存在しているということである。前者が何らかの倫理的原則の可能性を打ち立てようとしているのに対して、後者はその倫理観的原則の限界を描き出そうとしているのだ。
 本稿では、まずファーストシーズンで打ち立てられた倫理的原則がどのようなものか検討していく。

 

1 忍野メメ、貝木泥舟、影縫余弦
 ファーストシーズンにおける倫理的原則とは、ひと言で言えば公正な平等主義であり公平な相対主義である。そして、それを体現するキャラクターこそ怪異の専門家・忍野メメに他ならない。
 たとえば『傷物語』では、人間側の都合と吸血鬼の都合は和解不可能なまでに対立している。すなわちドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッターは人間側の都合(「怪異に食われてはならない」)を代表し、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは吸血鬼の都合(「人間を食わなければならない」)を代表している。ここで確認すべきは、忍野メメが「バランサー」「あくまで中立」の態度を崩さないということである。彼は人間側の都合が正しいとも吸血鬼の都合が正しいとも言わず、あくまで両者の幸不幸を再分配しようとするのである。
 同じように『猫物語(黒)』では、大人側(両親側)の都合と子供側の都合が和解不可能なまでに対立している。すなわち羽川翼の父親と母親は大人側(両親側)の都合(「子供のせいで苛立たざるを得ない」)を代表し、羽川翼と障り猫(=ブラック羽川)は子供側の都合(「両親のせいで苛立たざるを得ない」)を代表している。そしてやはりここで、忍野メメは「バランサー」「あくまで中立」の態度を崩さないということは指摘すべきだろう。彼は両親側の都合が正しいとも子供側の都合が正しいとも言わず、あくまで両者の価値観を相対化しようとするのである。
 こうした忍野メメの態度を支えている修辞的原理は、ある種のアイロニカルな否認ということになるだろう。
 たとえば『化物語』では、おおよそ五人の少女たちが様々な形で怪異絡みのトラブルに見舞われている。すなわち戦場ヶ原ひたぎのおもし蟹、八九寺真宵の迷い牛、神原駿河のレイニー・デヴィル、千石撫子蛇切縄、そして羽川翼の二度目の障り猫(=ブラック羽川)である。ここで注目すべきは、忍野メメが独自の信条(「自分が助けるのではなく相手が勝手に助かるだけである」)を掲げ、また彼女たちを助けようとする際に「力を『貸す』」という表現を好むことである。彼は明らかに他者を救済しようとするにも関わらず、その功績を否認することを選ぶのだ。
 この韜晦が意味するところは決して小さくないように思われる。改めて言うまでもなく、公正な平等主義と公平な相対主義は自己矛盾の罠に陥りやすい原理である。全体の平等性を維持する己の立場を特権化したり、個々の相対性を保持する己の立場を絶対化したりすれば、それは自分の正義を自分で裏切ってしまうことになるだろう。しかし忍野メメのアイロニカルな否認(「相手が勝手に助かるだけ」)は、言わば救済の過剰な見返りを己に禁じることによって、自身の平等主義相対主義を特権化し絶対化することを防いでいるのである。
 以上のごとき忍野メメの倫理的原則と修辞的原理は、彼と旧知の仲である貝木泥舟および影縫余弦と比較することで明瞭になるだろう。
 たとえば『偽物語』では、主人公である阿良々木暦の妹たちが怪異絡みのトラブルに見舞われている。すなわち長女・阿良々木火憐の囲い火蜂、そして次女・阿良々木月火のしでの鳥である。ここでは貝木泥舟と影縫余弦がそれぞれ、忍野メメの倫理的原則(=公正な平等主義と公平な相対主義)と修辞的原理(=アイロニカルな否認)を片方ずつしか共有していないことに注目すべきだろう。すなわち、貝木泥舟はアイロニカルである代わりに全く倫理的な人間ではなく、影縫余弦は公正かつ公平である代わりに全く修辞的な人間ではないのである。
 彼らの描写を見ることで、忍野メメが倫理的であると同時に修辞的であることの意味合いも分かるはずだ。たとえば貝木泥舟は自身の主義主張を特権化・絶対化するわけではないが、全体の幸不幸を公正に再分配したり、個々の価値観を公平に相対化したりするわけではないだろう。彼は『偽物語』においては卑小な悪人である。また影縫余弦は、全体の幸不幸を公正に再分配し個々の価値観を公平に相対化するが、自身の主義主張を特権化・絶対化してしまう。彼女は『偽物語』においては横暴な善人である。そして、両者とも少女たちのトラブルを収める立場ではなく起こす立場なのだ。

 

2.阿良々木暦
 修辞的な倫理、倫理的な修辞。それが忍野メメの体現するものであり、西尾維新が〈物語〉シリーズのファーストシーズンで打ち立てたものである。そしてそれを学び取っていくキャラクターこそ、半吸血鬼の高校生・阿良々木暦に他ならない。
 たとえば『傷物語』における阿良々木暦のアンバランスで偏った態度は、忍野メメのそれとは極めて対称的である。すなわちキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが殺されかけているのを見れば吸血鬼側の都合に加担し、ギロチンカッターが殺されているのを見れば人間側の都合に加勢するのだ。そして双方の都合を呑み込んでしまえば、身動きを取れなくなるだろう。彼は「バランサー」「あくまで中立」ではなく、吸血鬼側の都合と人間側の都合の双方に引き裂かれ、自分ひとりでは両者の幸不幸を再配分する立場にはいられないのである。
 同じことは『猫物語(黒)』における阿良々木暦の非平等的・非相対的な態度にも当てはまると言えよう。すなわち友人の羽川翼と対話し障り猫(=ブラック羽川)と対話したから子供側の都合に加勢しているのであり、もし羽川翼の両親と対話していたら大人側の都合に加担したかもしれないのだ。そして双方の都合を呑み込んでしまえば、やはり身動きを取れなくなっただろう。「バランサー」「あくまで中立」ではない彼は、両親側の都合を斥けて子供側の都合に寄っているだけであり、両者の価値観を相対化することができていないのである。
 こうした阿良々木暦の態度は、だが忍野メメの倫理的原則と修辞的原理に感化され少しずつ変化していくだろう。
 たとえば『化物語』とは、様々な形で怪異絡みのトラブルに見舞われている五人の少女たちと関わりながら、阿良々木暦が忍野メメ的な原理原則を内面化し成熟していく過程だと要約できる。もちろん、八九寺真宵の件では子供側の都合と両親側の都合を相対化できていないし、千石撫子の件では被害者側の幸不幸と加害者側の幸不幸を再分配できていないだろう。それを可能にしているのは、前者の場合は『傾物語』における自分自身であり、後者の場合は神原駿河である。ここではやはり、彼はアンバランスで偏った態度のままなのだ――それが正義ではなく愛だと誤解されるほどに。
 しかしそれ以外のエピソードでは、阿良々木暦の精神は少しずつ進歩していると言えよう。まず彼は蟹に魅入られていた戦場ヶ原ひたぎと恋人関係になると、彼女に恋をしていた神原駿河との三角関係に陥り、また彼自身に恋をしていた羽川翼との三角関係にも陥ってしまう。ここで問題にすべきは、駿河の件では自分が死ぬことで事態を丸く収めようとしていたはずの彼が、翼の件ではそれを明確に退けた上でキスショットに助けを求めるということだ。直接的にはひたぎの影響を受けたこの転回は、とはいえ結果としては「あくまで中立」「バランサー」の態度に近付いている。
 そして阿良々木暦の変化がある程度の完成を見せる作品こそ、ファーストシーズンの完結編である『偽物語』なのだ。
 具体的には『偽物語』での、貝木泥舟および影縫余弦に対する阿良々木暦の倫理的・修辞的態度がそれに当たるだろう。すなわち阿良々木火憐を傷つけた貝木泥舟に対しては倫理的に振る舞い、阿良々木月火の怪異を殺そうとした影縫余弦に対しては修辞的に振る舞うのだ。ただ単にアイロニズムを振りかざすだけの「悪人」に向けては公正さと公平さをぶつけ(=悪の否定)、ただ単に公正さと公平さを振りかざすだけの「善人」に向けてはアイロニカルな否認をぶつける(=悪の肯定)。そのような形で、彼は忍野メメの原理原則を回復しているのである。
 特に同作において、阿良々木暦が火憐と対峙しながら語る正義論は重要な意味を持つように思われる。正義の味方は他者を救済するために行動しながら、あくまで自分のために行動しているのだと嘯かなければならない――すなわち自身の正義が「偽物」であると宣言しなければならない――以上のような論理を彼は語るのである。これは明らかに、忍野メメの修辞(「相手が勝手に助かるだけ」)と同じ精神を共有していると見なすことができよう。平等主義相対主義に殉じながら、その立場を特権化し絶対化しないためのレトリックがここにはあるのだ。
 修辞的な倫理と倫理的な修辞。そしてそれを内面化し成長していく主人公。それこそ西尾維新〈物語〉シリーズのファーストシーズンにおける主題的骨子である。