鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

嘘をつくことは悪なのか? ――シュタゲ、まどマギ、ピンドラ、そして乙一

 他者の言葉もまた、「私という他者」に応じてその形を変える。従って、代弁することや自分から語らせること、合意を取り結ぶことや自由に選ばせること、そのいずれも倫理的正当性を完全には保証しない。ここから導き出されるのは、私たちには他者の言葉が本当かどうかを確かめることは原理的にできない、というごく当たり前の諦めだ。したがって、「嘘をつくこと、沈黙することは悪である」と簡単に言うことはできないし、「正直であること、雄弁であることが善である」と言うこともできない。なぜなら、言葉にまつわるそれらの判断はもう不可能性に陥ったのだから。
これは、一般的にカント倫理とは大きく異なった主張だろう。カントは、いついかなる場合でも嘘をついてはならないと述べている。したがって、私たちは私たちの倫理に別の名(仮に「責任」とする)を与えなければならない。責任とは、正直であることでも雄弁であることでもない。むしろ私(という他者)や他者が必然的に嘘をつき、沈黙するような状況に耐えなければならないことだ。だがこれはカント倫理を否定するものではなく、むしろ補足する類の考えになる。カント倫理が他者を人格として尊重することにあるなら、その延長上に「責任」の問題があるのだ。
 とはいえ、それはなんら目新しい主張ではないだろう。ジャック・デリダ『死を与える』が、だいたい同じようなことを書いている。そこで語られているのは、責任とは倫理に従うことではなく背くことであり、他者に応答することではなく沈黙することである、というものだ。彼は「嘘を言う自由があるときにしか、真実を言う価値はない」「倫理に背くことでしか、人は責任を負うことができない」と別のインタビューで語る。その正義は、理性や法を壊しかねない場所に打ち立てられている。デリダにおいては、正義と理性は別々ながら決して切り離せず、支え合い定義し合う関係にあるようだ。
 そこでデリダが例に挙げるのは、旧約聖書の物語だ。最愛の息子イサクを犠牲に捧げよ、と神に命じられたアブラハムは、モリヤ山へ向かう。息子に死を与え、その死を神に与えようとした瞬間、その手は神によって押しとどめられる――この残酷なエピソードによって、デリダはなにを言おうとしているのか。愛する息子を殺すこと、さらには周りへ神の言葉を決して漏らしてはならないこと、すなわち「犠牲」と「秘密」が責任の要なのだということだ。これら二つの要素は、あたかも俗流リベラリズムの「自由」と「合意」をそれぞれ裏切るかのようだ。
 タイトルの「死を与える」という言葉には、二つの意味がある。一つ目は「自分が誰かのために死ぬこと」、二つ目は「誰かのために別の誰かを殺すこと」だ。その二つが、なにかを与えること(贈与)の極めつけの姿と言えよう。「贈与」は「交換」を始めさせ、また終わらせる。貰ったからお返ししよう、お返しされたからまたお返ししよう、という共同体の互酬による道徳は、初めになにごとかを与える人によって生み出される。「死を与える」とは、その交換や贈与を行なう主体をこの世から葬り去るという意味で、交換の道徳そのものを壊しかねない「贈与」なのだ。
 デリダはこう記している。憎むべき人を憎んで殺すのなら、それは当たり前のことであって「犠牲」ではない。愛すべき人を殺さなければならないために、もはや憎まなければならないことさえあるものが「犠牲」なのだ。しかも、それを「秘密」にしておかなければならないということさえ「秘密」にすること。こうした諸々が、今も世界中で起きている「死を与える」という事態だ。私たちは誰かを愛するとき、本当なら愛しうる別の誰かを間接的に殺しているし、そのことに常にすでに目をつぶることで生き長らえている。しかもそれが秘められている状況を誰かに話すこと自体、欺瞞を伴うために許されないのだ。
 前回、前々回の記事で取り上げた作品シュタインズ・ゲート』『魔法少女まどか☆マギカ』『輪るピングドラムの三つは、「自由」「合意」を基にした倫理観よりも、上記のごとき「犠牲」「秘密」を基にした責任観を意識した方がよりよく理解できる。岡部倫太郎が牧瀬紅莉栖を犠牲にすることでしか椎名まゆりを助けられないこと、さらに物語の至る場所で、彼はその真相を伏せていなければならないこと。暁美ほむらが、自分自身を犠牲にすることでしか鹿目まどかを救えないこと、そして、暁美ほむらは常にその経験について沈黙しなければならないこと。あるいは、鹿目まどかがそうした暁美ほむらの意志を、「彼女が助けようとしたこの自分自身」を犠牲にすることでしか世界を変えられないこと。
 そうしなければ、「責任」を引き受けることはできないのだ。「救われる相手の気持ちを考えなければならない」「勝手に代弁するのではなく、自分から語らせなければならない」的な凡庸なモラルは、まさにこの「責任」の問題を無視している。『輪るピングドラム』では、主に冠葉が陽毬のために自己を、後半は眞利に唆される形で世界を「犠牲」にする。この冠葉の払う犠牲が、間違っているとは言わないまでも不充分なのは、彼が世界を(そして自己を)「憎んでいる」からだと考えられるだろう。愛しているものでなければ犠牲たりえない(岡部にとっての紅莉栖)。多蕗が語ったように、たった一言の「愛している」という言葉を贈与された者、自分自身を愛する者が、その自己を犠牲にして他者へ「死を与える」ことができるのだ。よって、物語は最初の「贈与」がなんだったのかを辿っていく(それが冠葉に与えられた林檎だ)し、苹果の「愛」の対象が晶馬というくっきりとした対象を持つことから事態は進展していくわけだ。決して彼女はモラルに目覚めたのではないし、結末も冠葉や企鵝の会(旧ピングフォース)を倫理的に断罪するようなものではない。むしろ、序盤の展開はモラリスティックな晶馬が冠葉や苹果に対して非力で、やや無責任でさえある姿を描き出そうとする。

 この「責任」の問題を端的に示したのが、乙一の短編小説「calling you」だと言えないだろうか。主人公のリョウは、携帯を持っていない、友人のいない女子高生だ。彼女はクラスメイトに憧れ、頭のなかで空想の携帯電話を思い描く。その想像があまりにリアルになったとき、同じように携帯を空想していたシンヤと繋がってしまう。彼らは雑誌の読み合わせによってお互いが実在することを確かめると、急速に心を通わせていく。現実の世界で会おうとするのだが、顔を合わせる直前、車に轢かれかけたリョウをかばってシンヤは撥ねられ、死んでしまうのだ。ここでとある設定が重要になってくる。リョウの携帯とシンヤの携帯にはなぜか一時間の時差がある。リョウはシンヤの死をなかったことにするため、シンヤを罵ることで引き返させようとする。だが、シンヤはリョウの嘘を見抜き、結局は同じように跳ねられて死んでしまう。
私が問題にしたいのは、もう一人の登場人物であるユミ(ハードカバー版では原田)だ。空想の携帯を持つ三人目であり、二人の仲を見守るアドバイザーとして描かれながら、結末において、その正体が何年もあとのリョウ自身であることが明かされる。彼女は、シンヤが死ぬと分かっていながら過去の自分自身にそれを告げないのだ。なぜか?
 彼女は沈黙している。それが秘密だということさえ秘密にしたまま、過去の自分とシンヤが出会い、死ぬまでを見過ごしつづける。私がこの小説を読んだのは中学生のころだったが、そのときは「リョウ」の物語にばかり注目していた。しかし今になって読み直してみれば、明らかに考えてみるべきは「未来のリョウ=ユミ(原田)」ではないか。倫理的に見れば彼女は嘘をつくべきではないし、感情的に見ればシンヤを助けない理由は見つからない。だが、彼女は本当のことを言ってはいけないし、そのままシンヤを犠牲にしなければならないらしい。
 簡単なことだった。もし彼女がそこで真実を告げて過去を変えれば、今度は過去の自分自身とシンヤの言動が「偽=嘘」になるだろう。つまり、彼女は嘘をつかないことには、自分に本当のことを言わせることができないのだ。そしてシンヤを助けようとすることは、今度は自分を助けるために死んだ(死を与えた)シンヤを「なかったことにする=殺す」ことになる。彼女は愛すべきものに「死を与える」ことでしか、もはや愛すべき人を守ることができないのだ。そして、この矛盾を引き受けることこそが「責任」を果たすということなのだ。よって、彼女は倫理を無視しているわけでも、感情を無視しているわけでもないと思われる。むしろ、それらの延長線上としてものごとを突き詰めていけば、ある地点で私たちが当の倫理に背き、感情に背かなければならなくなることを「calling you」は描き出そうとする。この小説はSF的ではあるが、時間的な差異によって「私」という主体に「他者」が挿し込まれている点において、決して現実の私たちと無関係ではない。もはや「嘘をつくこと、沈黙することは悪なのか?」と問う必要さえないだろう。「それらが悪であるがゆえに、私たちは嘘をつき、沈黙しなければならない」。これが答えだ。