鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

このボカロ曲がすごい! ――2011年版

① ATOLS『バベル』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm13367851

② (仮)P『僕が見た夢』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm13292706

③ YM『十面相』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm13304052

④ ナノウ『Waltz Of Anomalies』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm15679694

⑤ baker『夏に去りし君を想フ』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm15457393

⑥ FLEET『Cipher サイファ

http://www.nicovideo.jp/watch/sm13309167

⑦ 電ポルP『夜待ちルイン』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm13353207

⑧ KEI『HERE』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14939119

⑨ wowaka『アンハッピーリフレイン』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14330479

⑩ ピノキオP『ユメネコ』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm13807329

 

MMD

① 八王子P『Sweet Devil』(MMD:わかむらP)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm16084673

② keeno『glow』(MMD:ネルドラP)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14108892

ボカロ私的良曲まとめ ――2015年1月&2月

① かいりきベア『アイソワライ』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25611546

② 西沢さんP『秘密男女の関係』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25571970

③ yukkedoluce『ワールド・オブ・パラドクス』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25510379

④ 石風呂『サイコなわたし』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25565367

⑤ Orangestar『空奏列車』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25630992

⑥ 椎名もた『ドラッグスコア』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25435058

⑦ はるふり『右に曲ガール』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25275605

ボカロ私的良曲まとめ ――2014年11月&12月

① MI8k『不完全な処遇』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25107796

② 砂粒『シンクロサイクロトロン・スピリチュアライザー』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22888888

③ ナブナ『夜明けと蛍』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24892241

④ ナナホシ管弦楽団『帰巣本能』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24955706

⑤ 電ポルP『未来景イノセンス

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24905365

⑥ keeno『morning haze』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24862460

恋愛、戦争、そして神的なもの ――小森健太朗『神、さもなくば残念』について

 小森健太朗『神、さもなくば残念』はサブタイトルが示すとおり、2000年代以降における日本のアニメーション作品群について、思想的な語彙を用いながら批評していく書物である。

 

 まず確認すべきは「モナド」の比喩だと言えよう。個々の共同体が相互不干渉のままで乱立している2000年代以降の状況を、小森氏はライプニッツモナド概念になぞらえることで説明している。たとえば本書が第二章で注目するのは、おおよそ外部の空間から閉ざされた内面的世界を描く作品群であり、あるいは外側の社会から切断された私的な関係を描く作品群であり、そしてまた厳しい現実から遠く離れた平穏な日常を描く作品群になるだろう(灰羽連盟Angel Beats!、AIR、最終兵器彼女灼眼のシャナエルフェンリートあずまんが大王、日常)。これらのアニメ群は、作品スタイルそれ自体が現在の日本を表象するものとして評価されている。
 ここで重要なのが「後期クイーン的問題」の概念になることは言うまでもない。もし仮に個々の共同体が相互不干渉のままで乱立しているならば、社会全体を俯瞰することは私たち個々人においては困難を極めるだろう……そのことを小森氏は、推理小説作家のエラリー・クイーンが抱えた問題と重ね合わせている。たとえば本書が第四章で言及するのは、事件の発端となるはずの人物が決定不可能に陥りかねない作品であり、または超越的であるはずの人物が世界の真相から隔離されている作品であり、ひるがえって探偵が超能力を持つことでクイーン的問題を解決した作品である(攻殻機動隊涼宮ハルヒ、UN-GO等)。これらのサブカルチャーは、従来のミステリの枠組が成立困難になりつつある事情に自覚的であり、その意味においてやはり論考の対象になるものであるらしい。
 以上のように考えれば『神、さもなくば残念』が恋愛モノと戦争モノに多くの頁数を割いていることにも肯けるだろう。というのも恋愛感情と戦争状況こそ、個々の人間あるいは国家が相互不干渉になるとき最も過激化するものであり、そしてそれを俯瞰し裁断するような立場は誰にも与えられていないからだ。恋愛モノについては、王道の三角関係を逸脱するかのようなラブコメ作品や、従来の純愛感情が暴走した果てにあるヤンデレ作品が扱われている(スクールランブル、SHUFFLE!)。他方で戦争モノにおいては、過去作品で掲げていた平和主義的理想の衰退を表現するシリーズ最新作や、分かりやすい悪役・敵役を描かないオリジナル作品に好評が寄せられる(機動戦士ガンダム00、蒼穹のファフナー)。むしろ敵役の悪性を疑わないか、自身の「モナド」的な状況を吟味しない作品は押し並べて不評である(図書館戦争魔法少女リリカルなのは二期以降)。
 ところで小森氏は、交流不可能であるはずのモナド同士が連関するには「神」の奇蹟が必要である、とライプニッツの哲学を要約している。そしてそこではピョートル・ウスペンスキーの神秘思想が接ぎ木されている。どうやら本書は、個々の共同体が相互不干渉のまま乱立する状況を調停するには、何らかの宗教的・神的な力能が必要であると結論したいのかもしれない。実際に最終章で最大限の称賛を受けるのは、登場人物が何らかの意味で自己犠牲的な別離を告げながら(満月をさがして、efの新藤千尋)、特に高次の概念に昇華されていく魔法少女モノということになるだろう(魔法少女まどか☆マギカ)。それは単に現在の日本を表象するだけではなく、その現状を乗り越える想像力を提供しようとしているからだろうか。いっぽうでヒロインが何の意味付けもなく死亡している作品に対しては、著者は失望の感情を隠そうとしない(efの雨宮優子編)。

 

 もちろん私自身は小森氏の主張に完全に同意するわけではない。たとえばここ最近の日本が「モナド」の比喩で語られ得るものなのか、個人的にはもう少し慎重でありたいと考えている……またそれに対する処方箋が神秘的なものであることに関して、いささか懐疑的な心情がないわけでもないのだ。個々の共同体はモナド的な相互不干渉ではなく神即自然的な相互過干渉である、と現状を分析した哲学者も存在し、そしてスピノザにおいては神の予定調和は必要ではないのだから。いずれにせよ私は自己犠牲のごときものを崇高なものだとは思いたくない。しかしそれを考慮した上でなお、私は本書の気概に対して尊敬の念を表明しないわけにはいかない。
 尊敬の念は『神、さもなくば残念』の内容というよりはむしろ形式について向けてよい。アニメーションと哲学の回路を構築すべくアニメ評論の意義と展望を熱く語り、萌えという語を現象学的に解釈したかと思えば、真理という文字に「パンツ」とルビを振るその身振りは、ドン引きスレスレのところで著者の覚悟のようなものを感じさせるだろう。それはサブカルチャーの猥雑さを維持したままで如何に思想的に語るか、そうした批評的な営みの結果であると感じられなくもない。普通の読者を蹴り落とすかのような表紙イラスト、そして「壱弐参肆伍陸」というコテコテの章番号の付け方を見れば、まさに本書それ自体が神かさもなくば残念なのだという印象を受ける。
 残念ながら私は小森氏のスタイルには少なからず引いてしまうのだが、それがひとつの模索である限りにおいて学ぶべきことは多く、また世に出る意味は大きい書物だと言うほかないだろう。

批評家は進歩したのか? ――大澤聡『批評メディア論』について

 大澤聡『批評メディア論』はサブタイトルが示すとおり、戦前期日本の論壇と文壇について論じたものである。しかしそれは単に日本の戦前期を文学史的に整理するのではなく、現代の批評が抱えている諸問題の起源を、批評が成立した戦前期に遡行することで見出そうとするものだと言える。

 

 最初に確認すべきは、おおよそ個々の論壇時評こそが論壇全体の権力を発生させてきたことであり、あるいは個々の文芸時評こそが文壇全体の生成させてきたことだと言えよう。たとえば前者については、総合誌の論壇時評や学芸欄の論壇時評それ自体が相互批評の交叉点として「論壇」を構築してきたし……また後者については、批評家たち自身による批評無用論争それ自体が批評の存在感を増長させ、想定されるべき読者共同体としての「文壇」を仮構してきたのだと要約できる。
 論壇のなかで執筆された個々のレジメが、どこからどこまでを論壇とするのか事後的に決定し、批評メディアとしての論壇を自分自身で基礎付けていく。そして文壇は紙面を埋めるための「重大な」問題を発見すべく奔走し、論破すべき仮想敵を仄めかし暗示しながら強引に仕立て上げると、それを論文で叩きのめすことで憂さ晴らしの消費を終えるわけだ。かかる文芸時評の手続きを喜ぶ読者が成立しさえすれば、そこに職業としての批評家もまた存続してしまうだろう。
 ここで重要なのは、おそらく以上のように創造された「論壇」「文壇」が2つの欲望に引き裂かれていたことである。すなわち、先行批評の捏造してきた論壇と文壇の内部に留まろうとするだけの「人物批評」の欲望と、そして論壇と文壇の外部に出るべくして未知の批評に賭けようとする「匿名批評」の欲望と。人物批評においては、あたかも普通選挙時代の比喩であるかのように有名批評家/無名批評家が区別され、有名批評家たちの人格が記号化(キャラクター化)されていったのに対し……匿名批評においては、社会的顕名/非社会的匿名が区別され、匿名批評家たちは例外圏において読者にカタルシスを与えたのである。ここには有名/無名の二項対立と、それを無効化してしまう顕名/無名の二分法が図式的に与えられている。
 人物批評の利点は、ひとりの人物を通じて複数の領域を横断的に論じることができることであるが、それ以上に大衆ウケがいいことである。大衆は批評家の固有名を消費し、彼らの言葉ではなく彼らの表象を享楽し、有名批評家と無名批評家のあいだに残酷なまでの切断線を引こうとする。そうしてそれは文壇における現実的な権力関係にまで影響を及ぼすのだ。たとえば座談会では単なる合評ではなくプロレス的な討議が好まれるようになり、批評家たちは劇的なロールプレイを演じさせられると同時に、お互いの親密さを擬態することを余儀なくされていくだろう。彼らはまるで合言葉のように造語群を氾濫させ、批評メディアとしての論壇を一枚岩のものにしていくわけだ。この文壇政治は『新潮』『文学界』などの雑誌で見られるが、いわゆる「行動主義論争」のなかでこそ最も露骨に顕在している。他方で匿名批評は、上に述べたスターシステムの外部に出ようとするものである。それは論壇において大した権威を持たない無名批評家が、有名批評家に対して精神的・経済的に自立するための打開策である。彼らは学芸欄/文芸欄という匿名圏に逃げ込むことで責任の所在を曖昧にし、爽快な口調で誰彼構わずボロクソに論じ倒すことで世論を味方につけるのだ。

 

 おそらく本書が肯定的に注目しているのは人物批評ではなく匿名批評である。なぜなら匿名批評こそが、現在批評が置かれていた文学環境の状況を暴露し、そして批評を可能にしてきた編集メディアの実情を白日のもとに晒すからだ。それは批評がひとつの物質として我々の社会に存在しているという事実、そして言論がひとつの商品として市場に流通しているという現実である。円本のもとで革命的な出版大衆化が起きたところに、今日の私たちが読みまた書く批評の舞台は成立している……あるいは過去の批評家≒編集者たちの涙ぐましいまでの努力が、アカデミズムとは区別されたジャーナリズムの領域を今なお形成している。そして現代の論壇・文壇を(プロアマ問わず)外観してみれば、私たちの風景は戦前期の日本から何ら変化するところはない
 そのような批評の境界条件が壊乱し地殻変動を起こすことはありうるのか。大澤聡氏は過去に書かれた無名批評家そして匿名批評家のテクストに、来るべきその契機を予見しているのかもしれない。ここには批評史をめぐる新しい全体像を提示する気配、そして新しい批評の形式を模索する気概が現れているように思われる。

このボカロ曲がすごい! ――2014年版

① ATOLS『ハデス』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24955047

② sleepless『xenosphere』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22997181

③ ねこぼーろ『オノマトペメガネ』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24598974

④ keeno『morning haze』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24862460

⑤ 砂粒『シンクロサイクロトロン・スピリチュアライザー』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22888888

⑥ Mah『セクト

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23898832

⑦ niki『Close to you』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22749154

⑧ ピノキオP『絵の上手かった友達』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23298444

⑨ なぎさ『さよならの概算』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24782473

⑩ 電ポルP『ウルトラプラネット』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23380306

神山健治『009 RE:CYBORG』について

 神山健治『009』は監督・脚本の迷いが露骨に現れている映画だ。すなわち保守的に行くのか革新的にやるのか、あるいは娯楽作品にするのか文芸作品にするのか、そういう基本的な方針が定まっていないように思われる。原作に対して強欲貪欲だったのか優柔不断だったのかは分からないけれど。


 たとえばキャラクターの造型。009たちの容姿はよりリアル志向なものにリデザインされている。それ自体はべつにいい。しかしにもかかわらず、中国人である006の喋り方が未だに「~アル」のままなのだ。これはおかしいだろう。新しさを示すか古さを残すかの塩梅がぎこちないように思う。
 また本作は009たちサイボーグ戦士を全て登場させ、それぞれひと通りの見せ場を設けている。娯楽作としては正しい。しかし同時に神山は何か重たいメッセージを提示しようともする。ドラマとしては登場人物の数が多すぎるしバトルシーンが長すぎる。結果としてどちらも半端に終わっている。
 こうしたぎこちなさは、神山健治『009』を「誰かサイボーグが登場して哲学するかバトルして引き、誰かサイボーグが登場して哲学するかバトルして引きを繰り返し、その合間を縫って主人公の009が急に何かを決意したり急に何かを慟哭したりする」映画にさせてしまっている、と私は思う。
 つまるところ、100分ちょっとの映画でエンタメの片手間に「神とは云々」みたいな議論が展開できると思ってはいけないのだろう。

 

(個人的な好みとしては「なんだか深そうなテーマによって作品の雰囲気を重くしたがるくせに、最終的な解決は主人公の八面六臂な活躍と安易な自己犠牲に丸投げ」っていうのはもう勘弁してほしいなと思いました)。