鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

恋愛、戦争、そして神的なもの ――小森健太朗『神、さもなくば残念』について

 小森健太朗『神、さもなくば残念』はサブタイトルが示すとおり、2000年代以降における日本のアニメーション作品群について、思想的な語彙を用いながら批評していく書物である。

 

 まず確認すべきは「モナド」の比喩だと言えよう。個々の共同体が相互不干渉のままで乱立している2000年代以降の状況を、小森氏はライプニッツモナド概念になぞらえることで説明している。たとえば本書が第二章で注目するのは、おおよそ外部の空間から閉ざされた内面的世界を描く作品群であり、あるいは外側の社会から切断された私的な関係を描く作品群であり、そしてまた厳しい現実から遠く離れた平穏な日常を描く作品群になるだろう(灰羽連盟Angel Beats!、AIR、最終兵器彼女灼眼のシャナエルフェンリートあずまんが大王、日常)。これらのアニメ群は、作品スタイルそれ自体が現在の日本を表象するものとして評価されている。
 ここで重要なのが「後期クイーン的問題」の概念になることは言うまでもない。もし仮に個々の共同体が相互不干渉のままで乱立しているならば、社会全体を俯瞰することは私たち個々人においては困難を極めるだろう……そのことを小森氏は、推理小説作家のエラリー・クイーンが抱えた問題と重ね合わせている。たとえば本書が第四章で言及するのは、事件の発端となるはずの人物が決定不可能に陥りかねない作品であり、または超越的であるはずの人物が世界の真相から隔離されている作品であり、ひるがえって探偵が超能力を持つことでクイーン的問題を解決した作品である(攻殻機動隊涼宮ハルヒ、UN-GO等)。これらのサブカルチャーは、従来のミステリの枠組が成立困難になりつつある事情に自覚的であり、その意味においてやはり論考の対象になるものであるらしい。
 以上のように考えれば『神、さもなくば残念』が恋愛モノと戦争モノに多くの頁数を割いていることにも肯けるだろう。というのも恋愛感情と戦争状況こそ、個々の人間あるいは国家が相互不干渉になるとき最も過激化するものであり、そしてそれを俯瞰し裁断するような立場は誰にも与えられていないからだ。恋愛モノについては、王道の三角関係を逸脱するかのようなラブコメ作品や、従来の純愛感情が暴走した果てにあるヤンデレ作品が扱われている(スクールランブル、SHUFFLE!)。他方で戦争モノにおいては、過去作品で掲げていた平和主義的理想の衰退を表現するシリーズ最新作や、分かりやすい悪役・敵役を描かないオリジナル作品に好評が寄せられる(機動戦士ガンダム00、蒼穹のファフナー)。むしろ敵役の悪性を疑わないか、自身の「モナド」的な状況を吟味しない作品は押し並べて不評である(図書館戦争魔法少女リリカルなのは二期以降)。
 ところで小森氏は、交流不可能であるはずのモナド同士が連関するには「神」の奇蹟が必要である、とライプニッツの哲学を要約している。そしてそこではピョートル・ウスペンスキーの神秘思想が接ぎ木されている。どうやら本書は、個々の共同体が相互不干渉のまま乱立する状況を調停するには、何らかの宗教的・神的な力能が必要であると結論したいのかもしれない。実際に最終章で最大限の称賛を受けるのは、登場人物が何らかの意味で自己犠牲的な別離を告げながら(満月をさがして、efの新藤千尋)、特に高次の概念に昇華されていく魔法少女モノということになるだろう(魔法少女まどか☆マギカ)。それは単に現在の日本を表象するだけではなく、その現状を乗り越える想像力を提供しようとしているからだろうか。いっぽうでヒロインが何の意味付けもなく死亡している作品に対しては、著者は失望の感情を隠そうとしない(efの雨宮優子編)。

 

 もちろん私自身は小森氏の主張に完全に同意するわけではない。たとえばここ最近の日本が「モナド」の比喩で語られ得るものなのか、個人的にはもう少し慎重でありたいと考えている……またそれに対する処方箋が神秘的なものであることに関して、いささか懐疑的な心情がないわけでもないのだ。個々の共同体はモナド的な相互不干渉ではなく神即自然的な相互過干渉である、と現状を分析した哲学者も存在し、そしてスピノザにおいては神の予定調和は必要ではないのだから。いずれにせよ私は自己犠牲のごときものを崇高なものだとは思いたくない。しかしそれを考慮した上でなお、私は本書の気概に対して尊敬の念を表明しないわけにはいかない。
 尊敬の念は『神、さもなくば残念』の内容というよりはむしろ形式について向けてよい。アニメーションと哲学の回路を構築すべくアニメ評論の意義と展望を熱く語り、萌えという語を現象学的に解釈したかと思えば、真理という文字に「パンツ」とルビを振るその身振りは、ドン引きスレスレのところで著者の覚悟のようなものを感じさせるだろう。それはサブカルチャーの猥雑さを維持したままで如何に思想的に語るか、そうした批評的な営みの結果であると感じられなくもない。普通の読者を蹴り落とすかのような表紙イラスト、そして「壱弐参肆伍陸」というコテコテの章番号の付け方を見れば、まさに本書それ自体が神かさもなくば残念なのだという印象を受ける。
 残念ながら私は小森氏のスタイルには少なからず引いてしまうのだが、それがひとつの模索である限りにおいて学ぶべきことは多く、また世に出る意味は大きい書物だと言うほかないだろう。