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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

回避された選択 ――『ロボティックス・ノーツ』のためのノート

はじめに

『ロボティックス・ノーツ』は『カオスヘッド』と『シュタインズ・ゲート』から続く科学アドベンチャーシリーズの第三弾だ。このシリーズは、その世界観や登場人物の一部を同じくしている。そのため、もしも『ロボティックス・ノーツ』を論じようとするなら、それ単体だけではなく、前二作との関わりも考えなければならない。『カオスヘッド』から『シュタインズ・ゲート』で、『シュタインズ・ゲート』から『ロボティックス・ノーツ』で、どのようなテーマの発展が見られるのか? あるいはいかなる退行が生じてしまったのか?

 結論を先に言ってしまおう。『カオスヘッド』は「選ばれること」をめぐる物語、『シュタインズ・ゲート』は「選ぶこと」をめぐる物語である。この二作品は「選択」というひとつのテーマについて、およそ正反対の場所から描いている。あるいは、各々が表せなかったことを互いに補い合っている、と言い換えてもいい。そこから『ロボティックス・ノーツ』は、次のような作品として望むことができよう。すなわち、『カオヘ』の「選ばれること」と『シュタゲ』の「選ぶこと」の、両方を併せ持つ作品。シリーズ到達点としての三作目。

 だが、「選ばれる」「選ぶ」とは具体的にどういうことか? そのことを明らかにすべく、初めに『カオスヘッド』、次に『シュタインズ・ゲート』といった順序でストーリーを把握していこう。テーマに対するアプローチの差異は、おのずとはっきりするはずである(とはいえ、私はまだ『ロボノ』のゲームをプレイしておらず、アニメが放映される十月を待っている状態だ。そうした事情から、現時点におけるこの文章はあくまで『ロボティックス・ノーツ』を論じるための準備段階、すなわちノートという形に終わっていることを、あらかじめ断っておきたい)。

 

回避された選択――『カオスヘッド

カオスヘッド』のストーリーは、次の三角関係を中心に据えている。主人公である西條拓巳、メインヒロインである咲畑梨深、そして「本物の西條拓巳」である「将軍」。

「将軍」は作中で最強の超能力者(ギガロマニアックス)だが、その体は不治の病に侵されている。彼は、自分の代わりに黒幕である「希テクノロジー」の野呂瀬玄一を倒す者として、超能力を使い西條拓巳を創造(妄想)した。そして観察し、陰で野呂瀬玄一が操っている猟奇連続殺人事件「ニュージェネレーションの狂気」を接近させ、チャットや超能力によって語りかけることで、同じ超能力の覚醒を促そうとする。しかし、「将軍」は拓巳が力に目覚めれば、その代償として死ななければならない。

 咲畑梨深はかつて野呂瀬玄一によって拷問を受け、強制的にギガロマニアックスにさせられてしまった少女である。「将軍」に救われたあとは彼に好意を寄せ、彼の死を遅らせるべく、拓巳が覚醒しないよう見張っている。表向きは拓巳のクラスメイトとして親しくなっていく一方、心の内では拓巳を殺して彼を守るべきだとも感じている。だが、彼女は次第に拓巳にも惹かれていく。二人の「西條拓巳」のあいだで、梨深はジレンマを抱えることになる。

 西條拓巳は「ニュージェネレーションの狂気」の容疑者として疑われ、のちにメディアの晒し者にもされる。そんななか、ギガロマニアックスの蒼井セナや折原梢、そして岸本あやせと知り合うことで事件の真相に近づいていく。序盤は咲畑梨深が真犯人ではないかと警戒しているが、孤独な状況のなかで彼女を頼りにし、やがて依存してしまう。しかし、自身が「妄想」の産物であることを知らされたあとは自暴自棄に陥り、彼女を信じることもできなくなってしまう。

 主人公である拓巳を苛むのは、「選ばれること」の不安である。咲畑梨深は自分を選ぶのか、それとも「将軍」を選ぶのか。

 野呂瀬の力によってマインドコントロールを受けた拓巳は、自分の内なる声を聞かされる。いわく、梨深が好きなのは「本物の西條拓巳」であって、僕ではない、どうせあの二人は、セックスだってしているのだ、それに比べて僕は誰にも愛されず、野呂瀬にも敗れて殺されてしまう、だったら、いっそ今ここで梨深を犯してしまえ――。そして拓巳の手は、彼女の制服を引きちぎる。「妄想」の産物である彼にとって、アイデンティティはきわめて不確かなものである。ひとりの少女が自分を承認してくれるのかどうかは、切迫した問いとなって彼を苦しめるのだ。

 他方で拓巳は、「選ぶこと」の葛藤とは無縁である。彼が最終的に求めるのは梨深ひとりで、他にはいないからだ。それを具体的に示すのは、楠優愛と西條七海という二人のキャラクターである。

 楠優愛は、「ニュージェネレーションの狂気」第一の事件で妹の美愛を失った人物である。彼女は独自の捜査から拓巳を疑い、彼に近付いていく。なにか別の企みを持って拓巳と親しくなるという点では、梨深とさほど変わらない。さらに言えば、途中から彼に対して本気になってしまうところも一致している。しかし拓巳は、優愛と梨深のどちらを愛すべきか、といった迷いを持たない。なぜなら、優愛と梨深の出番は作中において完全に区分けされているからだ。拓巳は、まず優愛を好きになって裏切られ、次に梨深に恋愛感情を抱いたあと欺かれる。ここに二者択一の契機は訪れないのだ。

 西條七海は「将軍」の実の妹であり、拓巳の設定上(妄想上)の妹である。野呂瀬に拉致され、拷問によって力に目覚めたあとは、「将軍」と拓巳をおびき寄せる人質として扱われることになる。のちに野呂瀬は、七海を助けに来た梨深をも同じく人質にする。しかしここでも拓巳は、七海と梨深のどちらを率先して助けなければならないか、すなわち「どちらがより重要度が高い存在か」という問題には直面しない。というのも、その判断は野呂瀬が勝手に下してしまうからだ。結果、七海はあっさり解放され、一方の梨深はたったひとり囚われの姫君然として残される。

カオスヘッド』の物語には、「選ばれること」はあるが「選ぶこと」がない。その点においてこそ、あとで述べる『シュタインズ・ゲート』と対照的な作品だと言える。

 このことは、このゲームのシステム面とも深い繋がりがある。オリジナルのPC版『カオスヘッド』には、ルート分岐がほぼ存在しないのだ。そのためプレイヤーは、なにひとつ選択肢に悩まされずストーリーを享受することができる。これはちょうど、拓巳が一貫してなにも重要な決断をしていないことと重なり合っている。私たちは言われるままにクリックを続け、拓巳は「将軍」たちの導かれるままに成長していく。のちのコンシューマ版『カオスヘッド・ノア』ではキャラクターごとのシナリオが用意されるが、それもいささか表面的な変化に留まっているだろう。

 

 

カオスヘッド』には「選ぶこと」がない。だが、これは正確には、主人公である拓巳の物語が「選ばれること」の問いのみをめぐって展開されているために、「選ぶこと」の責任がヒロインたちに押しつけられている、と言うべきだろう。この問題を象徴するのが、蒼井セナである。

 セナは、父親である波多野一成を憎んでいる。彼は元「希テクノロジー」の研究員として、セナの母親と生まれたばかりの妹を実験台にし、殺してしまったのだ。ホームレス同然となった波多野に再会するやいなや、セナはギガロマニアックスの力を発動し、復讐を果たそうとする。だが、それは失敗に終わる。突如現れた「ニュージェネレーションの狂気」の実行犯がセナに発泡し、波多野はセナを庇って射殺されるからだ。この死によって、セナの心情に変化が起こる。自分を縛り付けるのは父への恨みではなく、母親と妹の最期を「気持ち悪い」と感じたことへの後ろめたさだった、と気付くのだ。

 セナと波多野は、唐突に奇妙な和解をしてしまう。というより、「父」とのコミュニケーションの問題が、「娘」の自意識の問題に矮小化されているのだ。なぜ、このような矮小化を行なう必要があったのか?

 それは、セナと波多野のコミュニケーションが、あまりに一方的だったからに他ならない。波多野はセナの問いかけを全て受け流し、最後にはその死によって永遠の沈黙に入り込む。波多野は、セナに対するどんな態度を「選ぶこと」からも逃げているのだ。つまり、「選ばれる」立場に甘んじている。したがって、セナが波多野に向けるどんな言葉も、宛て先を見失うしかない。この対話の決定的な失敗のために、セナは「自意識の矮小」という別の解決可能な方法を「選び」直さざるを得ないのだ。「選ばれること」「選ぶこと」の偏りが生む悲劇が、セナの挫折によってはっきりと示されている。

 

(次回へ続く)