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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

これは「母性」ではない。――『おおかみこどもの雨と雪』論

雨と雪について

 雨と雪は、どちらも成長するにつれて「狼」と「人」のあいだで苦悩する。だが、その結末はきわめて対照的である。雨は「狼」として動物たちに融け込み、雪は「人」として学校に慣れ親しんでいった。この対比は単なるおとぎ話ではなく、もう少し広い視点で捉えなければならない。彼らの物語は、それぞれ「母」である花と「父」である狼男の人生を追体験したと言えるのだ。どういうことか。

 まずは雨を見ていこう。雨は、森の主であるキツネの死期が近づくことで、代わりに弟子の自分が森を束ねなければならないと感じ始める。守るべきもののために今の世界を去っていく彼の姿は、実はかつての「母」と同じである。花もまた、雨と雪が自由に育つように都会を離れた人物だ。

 では、雪はどうだったか。雪は、転校生の草平に自分が狼人間であることを明かし、ひとつの通過儀礼を果たす。カミングアウトを通して異性との関係を取り結ぶ、という点において、彼女は生前の「父」に似ている。狼男と花のセックスは、変身した姿を見せた直後に起こった。

 以上のように、雨は「母」と、雪は「父」とそれぞれシンクロする。そしてそれは、彼らが「狼」と「人」の対を成していることと重なり合っている。というのも、花は狼男の子を育てることによって動物的な世界を知り、狼男は花の承認を経て人間的な家長になったからだ。表面的な設定に反して、この作品には「母‐狼」「父‐人」の図式が敷かれている。

 ただし、ここで確認しなければならないのは、子どもたちは親よりも厄介な状況に置かれている、ということだ。花には田舎へ移る彼女を止める存在はいないが、森へ入る雨には彼を留めようとする花がいる。また、狼男の相手である花には隠し事などなかったようだが、雪の相手である草平には、彼女と同じくアイデンティティの不安がある。これらの違いから、雨は「母」よりも強い葛藤を抱き、雪は「父」よりも対等な性関係を築くことになるだろう。

 

花について

 そして、雨と雪のこうした物語は、「母」である花に二度の挫折をもたらす。この挫折が、『おおかみこどもの雨と雪』の重要なポイントとなる。順に抑えていこう。

 花は雨に、愛する人の面影を見出している。髪の色、ファッション、変身した姿などの類似も、その一因だったのだろう。決定的なのは、雨が渓流に落ちて死にかける事件である。横たわる彼の体は、川で発見された狼男の死体をはっきりと反復しているのだ。全編を通じて、花は雪よりも雨に多く手をかけているが、それは雨の心身の弱さだけが理由ではあるまい。繰り返される花畑の夢は、あまりに象徴的である。一回目、彼女のもとを去っていく狼男の虚像は、のちに雨によって再現される。そして二回目、雨を追いかけていたはずの彼女は、どういうわけか狼男に再会するのだ。

 しかし、花のこの幻想は潰える他ない。すでに述べたとおり、雨は「母」を追体験するのであって、「父」にはならないからだ。むしろ、彼女の欲望を叶えているのは雪なのである。これが最初の挫折だ。

 次の挫折は、雪による「父」の達成に花が気付かないことである。花は、雨の追跡に没頭するあまり、学校に取り残された雪をほとんど忘却しているのだ。もともと彼女は雨びいきなので、仕方のないことかもしれない。たとえば、この作品には何回か、傷ついた雨を愛でる花に向かって雪が自分の手柄を自慢する、という場面が描かれる。だがそのいずれにおいても、花は雪を褒めない。最も注目すべきは、成長した子どもたちが傷つけあうシーンである。花が心配しながら呼びかけるのは、風呂に逃げ込んで泣く雪ではなく、勝利した雨の方なのだ。

 花の祈りは、雨が「母」になり、雪が「父」になることで二重に失敗する。しかし、これは決して悲観することではない。彼女の挫折は同時に子離れ、そして雨と雪にとっての親離れでもあるからだ。終盤、花が雨に対して叫ぶ言葉「しっかり生きて!」は、すでに子の自立を受け入れたものである。

 注意しよう。おおかみこどもの雨と雪』が描くのは決して「母性信仰」ではない。たしかに、葛藤も少なく子育ても投げ出さない花のような女性は、男性側からすれば「理想の母親」かもしれない。しかし強調すべきは、そのような花にも以上のようなエゴがあり、雨と雪はこのエゴを通過してこそ自立を果たしたということだ。その意味で、母親の独善を振り切って笑う草平には、この作品のエッセンスが凝縮されている。

 

狼男について

 ここでひとつの疑問が生じる。では、この作品において「父」である狼男はどのように位置づけられるのか。それを知るために、細田守の前監督作『サマーウォーズ』を検討しておこう。

 2009年に公開されたこの作品では、まず栄と侘助が「母」と子、そして侘助とラブマシーンが「父」と子にそれぞれ該当する。ただ、この二関係には偏りがある。栄と侘助が最終的に和解するのに対し、侘助はラブマシーンを殺してしまう。つまり『サマーウォーズ』は、「母」に対して「父」の物語をないがしろにしてしまった作品だと言えるのだ。しかもそれだけではない。

 侘助とヒロインの夏希、そして主人公である健介は三角関係の渦中である。「父」である侘助を軸に、「母」に夏希、「子」に健介を当てはめたオイディプスの三角形を描いてみよう。すると、あることが判明する。健介(子)に侘助(父)のプロフィールを上書きする夏希(母)は、花と似たような欲望を持っているのだ。

 だが、花と違って夏希の欲望は挫折しない。侘助はラブマシーンとの最後の戦いを健介に譲渡したあと、再び行方をくらますからだ。夏希の手元には、侘助に同一化した健介だけが都合よく残される。要するに『サマーウォーズ』は、「父」の物語を軽く扱うとともに、「子」の成長をスポイルしているのである。これは、単に脚本の欠陥として済ませるわけにはいかない。むしろ、現代社会における「父」の零落を正確に反映したものと考える必要がある。

 陣内家に「父」が不在のままでは、「子」はまた「母」と癒着しかねない。しかし、仮に素朴な「父」の復権を行なうだけなら、ただのノスタルジーに堕してしまうだろう。もし「子」の成長を描くのであれば、「父」なき時代にいかに「父」を機能させるか、という難問が立ちはだかることになる。細田守という作家は、この難問に取り組んだ者のひとりとして捉えられよう。

 

 こうした問題点を踏まえたうえで、『おおかみこどもの雨と雪』の論に戻ろう。この作品は、『サマーウォーズ』の限界をいかに乗り越えるか、という課題に挑戦したものとして見ることができる。そしてそれは、端的に「ラブマシーン」から「おおかみこども」への移行に表れている。

 まず、雨と雪はラブマシーンと違い、自我を発達させる。彼らは「父」である狼男と自分たちの関係を捉え、対処できるようになるのだ。次に、雨と雪は「狼」と「人」のハイブリッドな存在であり、単なる人工知能ラブマシーンより複雑な立場にある。この立場の変化が、「母‐狼」と「父‐人」の二者択一を彼らに与えている。その選択肢がなければ、「母」の挫折はありえない。

 これが狼男の「父」としての意義である。彼は子どもたちに可能性を垣間見せることによって、花から卒業するチャンスを贈与するのだ。雨と雪はそのチャンスを逃さず、見事に成長する。「父」なき時代の「父」を描くために、この作品は「おおかみこども」という設定を据えたのではないか。

 だとすれば、おおかみこどもの雨と雪』の主眼は「母性」ではなく、実は「父性」なのだ。ほぼ序盤で死んでしまう狼男こそ、花と雨と雪を陰から支える「不在の他者」なのである。それは、『サマーウォーズ』の栄が死ぬことで、家の団結をより強固にしたこととはまた異なっている。栄が子どもに示すのは単一の道であり、狼男が子どもに教えるのは道の複数性なのだ。

 

 ところで、雨が「母」に、雪が「父」になるというのは否応にもジェンダーの攪乱を想起させる。『サマーウォーズ』におけるカズマや『おおかみこどもの雨と雪』における雨の中性的魅力は、また別の機会に論じることとしたい。