鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

コピーライトとアイデンティティ――中村明日美子『ウツボラ』論

 中村明日美子ウツボラ』は、コヨミと「三木桜」がすれ違うシーンで締めくくられている。このとき、コヨミには叔父である溝呂木舜のコピーライトが遺産として受け継がれており、「三木桜」には、おそらくは編集者の辻と性交したときに孕んだのであろう子が宿っている。しかし、一見するとこの結末はきわめて奇妙である。実際には、溝呂木の執筆に関わっていたのはコヨミではなく「三木桜」であり、辻が愛していたのは「三木桜」ではなくコヨミだからだ。二人は、それぞれ本来とは逆のものを受け取っているのである。

 なぜ、こうした役割逆転が演じられなければならなかったのか。彼女たちの対比を、初めに詳しく追っておこう。

 まずコヨミは、辻と矢田部という二人の男に欲されている。編集者の辻は、作家の溝呂木舜を敬愛し、溝呂木の姪であるコヨミに惹かれている。そして、コヨミが叔父である溝呂木に恋をしていることを知って嫉妬の念に駆られている。ここには、分かりやすいオイディプス・コンプレックスの図式がある。また、溝呂木と長年の友人である作家の矢田部は、彼はコヨミを「嫁に欲しい」と評し、またエピローグでは本人に「嫁に来ないか」と誘う。ここにも、心理的な三角形の萌芽が伺える。以上のことからコヨミは、こうした男同士の絆の媒介として存在しているのだと言える。

 改めて述べるまでもなく、ホモソーシャルの空間において男がより強く意識しているのは、愛する女ではなくライバルである。たとえば辻は、溝呂木の盗作を確かめるや否や彼を激しく罵倒し、口封じのためにコヨミの体を要求する。それまでのコヨミに対する丁重な扱いから遠くかけ離れているその契約は、しかしとりたてて不自然なわけではない。尊ぶべきライバルの威信が失われたとき、女の尊厳もまた地に堕ちるのだから。また矢田部も、溝呂木の盗作を暗に非難する際、コヨミに寝物語を聞かせる過去の彼を引き合いに出す。いずれの場合も、コヨミは「溝呂木の姪」以上の意味を持っていない。

 他方、「三木桜」と交わるのは、辻と溝呂木の二人である。まず溝呂木に対しては、自殺した「藤乃朱」の双子の妹を名乗って彼の前に現れ、逢瀬を重ねる。「藤乃朱」は、溝呂木が盗作した小説『ウツボラ』の原作者として溝呂木の弱みを握り、彼を何度も犯した女である。だが、ここにはっきりとした三角形が描かれることはない。なぜなら、刑事の海馬が推理するように、「三木桜」と「藤乃朱」には同一人物の可能性が絶えず付きまとっているからだ。また、辻に対しては、「三木桜」は「藤乃朱」を名乗って接触し、彼と性交する。ここでも、明確なオイディプスは成立しえない。というのも、溝呂木にとっての「三木桜」と、辻にとっての「藤乃朱」は、微妙なズレを孕んだまま決して重なり合うことがないからだ。

 のちに海馬の上司である望月によって、「三木桜」は「秋山富士子」と名指され、また溝呂木によって再び「藤乃朱」と結び付けられる。全編を通して、「三木桜」の同一性は常に揺らいでいる。さらに、彼女自身のアイデンティティもきわめて不安定であることは、一連のモノローグ(「私は、世界のさかいめが分からなくなった」「先に声をかけたのはどっちだったろうか、判然としない」「わたしと相対しているあなたは一分の混じりもなく完璧にあなたであると言えるのだろうか?」「自分が自分から離れていっているような気がする」)から明らかだ。そこにスタティックな関係性が構築されるべくもない。

 つまり、コヨミが確固たる自己と他者との関係を持っているとすれば、「三木桜」はそれ以前、自己と他者の区別が曖昧な世界で生きていると言えよう。この対比は、刑事たちへの対応にも表れている。コヨミは、警察手帳を出さない海馬を即座にストーカーと断定できるし、「三木桜」は、家族の大切さを説く望月の言葉を一笑に付すことが可能だ。そのように考えたとき、二人の役割逆転は当然の成り行きとなる。コピーライトは、私がその作品を書いた、という確固たるアイデンティティの表明であり、妊娠は、胎児とのあいだに自他の境界なき領域を築くことだから。

 

 いったい誰が『ウツボラ』を書いたのか、「三木桜」とは果たして何者なのか。中村明日美子ウツボラ』は、これらコピーライトとアイデンティティの謎をめぐって展開される。しかし物語は、そうした問いの前提条件そのものを崩しにかかってくる。「作品は著者のものです」と食い下がる辻を、編集長が「それはお前の決めることじゃない」と切り捨てる対話が、そのことをあからさまに示している。また、「三木桜」の本名は最後まで明らかにされない。このような『ウツボラ』の企図を徹底して体現しているのが、「秋山富士子」である。

 序盤から失踪扱いになっている「秋山富士子」とは、溝呂木の狂信的な読者として小説を何度も送りつけていた「本物の藤乃朱」である。対して「三木桜」の正体は、会社の金を横領して逃亡したOLに過ぎない。彼女は「秋山富士子」の小説に惚れ込み、デビューの後押しをすべく黙って新人賞に投稿した。そして「秋山富士子」は、溝呂木の盗作につけ込む「三木桜」と同じ顔に整形して「藤乃朱」と入れ替わり、彼と結ばれることに成功した。だがそのとき「秋山富士子」は、溝呂木が「誰も愛していなかった」「自分の作品しか愛していない」ことを知ってしまう。彼女は最後に、溝呂木舜の登場人物になることを願って自殺する。「三木桜」の暗躍は、全て「秋山富士子=本物の藤乃朱」の意志を完遂するためのものなのだ。

 オリジナル作者であるはずの「秋山富士子」は、『ウツボラ』のコピーライトを主張しない。のみならず「藤乃朱」として溝呂木に抱かれるとき、「本物の藤乃朱」としてのアイデンティティさえ必要ではないのだ。彼女は単に趣味で小説を書くだけであり、愛する男とのお膳立ても他人に任せて整形してしまう。さらに、死後においても「三木桜」の同一性を揺さぶっているのはすでに見てきたとおりだ。だとすれば、本作において真に恐ろしい存在は、冒頭でビルから身を投げ「顔のない死体」と化した「秋山富士子」に他ならない。

 

 では、コピーライトもアイデンティティもありえない価値観のなかで、作家はどのように在るのか。最後に、溝呂木舜について検討しておこう。

 溝呂木は性的不能のコンプレックスに歪み、またスランプに陥って読者を呪う中年男として描かれる。彼が救われるためには、性関係の介在しない絆のなかで安住し、作家を辞めて生き延びるより他にない。その選択はどちらも、溝呂木の姪であるコヨミにとっては喜ばしいことのようだ。だが、彼はコヨミを残して「三木桜」のもとへ赴き、最後は『ウツボラ』を描き上げて死んでしまう。その決断は、「三木桜」や「秋山富士子」の目的に合致していると言えなくもない。しかし、「三木桜」は溝呂木の死に対しては驚くほど冷淡である。唯一、友人の矢田部が墓前でシンパシーを口にするだけだが、それもコヨミの涙に押し流されてしまう。

 このことは、アイデンティティもコピーライトも中途半端に手放さない作家という存在が、コヨミにとっても「三木桜」にとっても受け入れがたいことを物語っている。確固たる自己を持つコヨミにとっては、作家を辞めようとアイデンティティは残るため死ぬ意味はなく、自他の区別が曖昧な「三木桜」にとっては、コピーライトの喪失など端から自殺の理由になどならない。作家は、溝呂木舜は、ただ二人の強かさのあいだで狼狽えながら命を断つのだ。その意味でこの作品は、作家たちの近代的なロマンティシズムに対してあまりに残酷な構図を投げかけている。それでもなお作家であろうとするなら、「才能」という「カラッポのウソ」を「一生つき通しなさいよ」。

「そもそも、生きることと天秤にかけるようなことがらが、生きるにおいて必要なのだろうか。ただ生きている。生きているから生きている。私はそれでいい。私は作家ではないのだから」

 上のモノローグは、コヨミと「三木桜」がすれ違うとき、どちらが語っているのか分からないような形で掲げられている。そしてたしかに、「私は作家ではない」とは両者の一致した意見であるように思われる。先に述べたとおり対照的に描かれていたコヨミと「三木桜」が、溝呂木をめぐっては融合するこの場面に、『ウツボラ』のテーマは集約されているのだ。