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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

虚実の解体、ゴーストの代償 ――川原礫『ソードアート・オンライン』論

「……遠すぎるよ、お兄ちゃんの……みんなのいる所。あたしじゃそこまで、行けないよ」――リーファ

 

 川原礫『ソードアート・オンライン』は2002年からネット上で発表されていたオンラインノベルであり、同時に、2009年から電撃文庫で刊行されているライトノベルである。本作を手短に紹介するなら、VRMMORPG、言わば仮想現実の大規模多人数同時参加型オンラインRPGの姿を描いた小説ということになるだろう。まさに同タイトルは作中に登場するオンラインゲームの名称から採用されており、その設定や描写には、実際に『ウルティマオンライン』『ラグナロクオンライン』をプレイした作者の経験が存分に発揮されている。

 とはいえ興味深いのは、その「ソードアート・オンライン」が第1巻の時点でクリアされてしまうことである。第2巻で外伝を執筆したのち、川原は「アルヴヘイム・オンライン」「ガンゲイル・オンライン」「アンダーワールド」と次々に攻略すべきゲームを移し替えていく。すなわち『ソードアート・オンライン』は、既に「ソードアート・オンライン」を舞台にした作品ではなくなっているのだ。にもかかわらずタイトルの変更は行なわれず、それと呼応するかのように、本作の物語や人物造形には「ソードアート・オンライン」という亡霊が回帰し続けている――。

 本稿はこのことが象徴する事態について、主にアインクラッド編とフェアリィ・ダンス編から論じるものである。

 

 最初にソードアート・オンラインを舞台にしたアインクラッド編と、アルヴヘイム・オンラインを舞台にしたフェアリィ・ダンス編を概観しておこう。

 アインクラッド編が他編と比較して際立っているのは、その舞台設定が「虚構」と「現実」の区別を解体してしまっていることにある。ソードアート・オンラインというゲームはクリアするまでログアウト不可能であり、アバターの容姿はプレイヤーのものがそのまま用いられ、その世界での死は現実での死をも意味する――開発者でありゲームマスターである茅場晶彦によって、この異状は早々に告げられる。彼の「これは、ゲームであっても遊びではない」という言葉は、ソードアート・オンラインが単なる虚構ではありえないことを指していると言えよう。

 他方で、フェアリィ・ダンス編がアインクラッド編と比べて明らかなのは、その舞台設定が「虚構」と「現実」を再び峻別してしまっていることである。アルヴヘイム・オンラインというゲームはいつでもログアウト可能であり、アバターの容姿はプレイヤーとは関係なくランダムに作成され、その世界での死は現実の死を意味しない――運営でありゲームマスターである須郷伸之の陰謀を除けば、その世界に異状はない。「これは、ゲームであっても遊びではない」という言葉は継続して引用されるが、アルヴヘイム・オンライン自体は単なる虚構なのである。

 虚構と現実の区別が解体された世界がアインクラッドであるのに対し、その区別が再導入された世界がフェアリィ・ダンスである。そしてここで重要なのは、アインクラッド編とフェアリィ・ダンス編における生命観の差異になるだろう。

 アインクラッド編においては、使い魔のモンスターを本気で復活させようとするシリカの小冒険(「黒の剣士」)、プログラムのユイを真剣に愛そうとする主人公のキリトやヒロインのアスナの疑似家族(「朝露の少女」)といった物語が描かれる。それらのエピソードがもたらす感動は、実際のプレイヤーであるサチの遺言(「赤鼻のトナカイ」)と不謹慎なまでに遜色がない。特に「NPCを犠牲にする作戦を立てるべきではない」というキリトの荒唐無稽な主張(「圏内事件」)は、本編においては不思議な重みを持っているのだ。それはアスナたち現実の人間の命が、虚構のキャラクターの命と等価値になった世界だからである。

 現実の命を虚構のレベルにまで引き下げる闇は、裏を返せば、虚構の命を現実のレベルにまで引き上げる光でもあったのである。虚構と現実の解体は、虚構のキャラクターと現実のプレイヤーを繋ぐ絆としても結実しているわけだ。他方のフェアリィ・ダンス編においては、そのような光は存在しない。あるモンスターの死をめぐって葛藤する主人公のキリトとヒロインのリーファの物語は描かれたが、そのエピソードは全体からすると不要であり説得力に欠け、TVアニメ版の編集では正しくカットされている。それはリーファたち現実の人間の命が、当然ながら、虚構のキャラクターの命と等価値な世界ではなくなったからである。

 

 虚実の解体による新しい価値観の肯定がアインクラッド編にあるならば、虚実の再縫合による古い価値観の回復がフェアリィ・ダンス編にはある。この対比を如実に示しているのが、双方のゲームマスターとメインヒロインの格差だろう。

 ソードアート・オンラインのゲームマスターであるヒースクリフこと茅場晶彦の立ち位置は、少なからず複雑なものである。彼の狂気的な計画は虚構と現実の交差する場所にのみ注がれており、それに対して、アスナたち登場人物は憎しみ以外の矛盾した感情を抱えることになる。特にキリトは茅場と対峙した際、茅場が語る少年時代からの夢想に肯定的な同一化を覚えるに至るだろう。茅場を巡って相反する彼らの感情は、そのままソードアート・オンラインの両義性から来ていると考えてよい。1万人をゲームに閉じ込めた罪とは対照的に、あくまで彼は純粋な子供として表現されているのだ。三角関係めいたものも微かに暗示されるが、そこでアスナに欲情する性的主体性はクラディールという部下にアウトソースされている。

 メインヒロインであるアスナこと結城明日奈のポジションも、ソードアート・オンラインの特徴と一致するものである。このことは、本編でアスナだけがアバター名と本名を重ねていることからも了解されるだろう。キリトこと桐ケ谷和人に向けられた彼女の愛は虚構と現実の壁を超えて首尾一貫しており、キリトもまた、アスナのことだけを特権的に愛しているわけだ。そこではリズベットのような第三者たちも、即座にライバルの座から転げ落ちる運命にある(「心の温度」)。デスゲームという環境によって促され、ユイという虚構のキャラクターによって更に育まれるアスナとキリトの関係は、まさに虚実の解体を前提にしたものなのだ。

 他方でアルヴヘイム・オンラインのゲームマスターであるオベイロンこと須郷伸之の立ち位置は、かなり単純なものである。彼の粘着質な野望は虚構と現実の乖離した場所にのみ向けられており、それに対して、アスナたち登場人物が憎しみ以外の感情を抱えることはありえない。特にキリトは須郷と対峙した際、須郷が語るルサンチマンに否定的な同一化を覚えるに至るだろう。須郷を巡っては素朴すぎる彼らの感覚は、そのままアルヴヘイム・オンラインの一義性と重なっているように思われる。300人を実験体に用いたという罪に相応しく、どこまでも彼は穢れた大人として表現されているのだ。三角関係めいたものはむしろ露骨に暴露されており、そこではアスナに欲情する性的主体性も別の誰かにアウトソースされることがない。ヒースクリフとオベイロンの対比は、ハッキリと前者に優位を置くものなのである。

 メインヒロインであるリーファこと桐ケ谷直葉のポジションも、アルヴヘイム・オンラインの特徴と一致するものである。このことは、リーファがアスナと違いアバター名と本名を分け、レコンこと永田慎一との仲もゲーム内外で区別していることから察せられるだろう。キリトこと桐ケ谷和人に向けられた彼女の愛は虚構と現実の壁を隔てて断絶しており、キリトもまた、リーファ・直葉のことだけを特権的に愛するわけにはいかないわけだ。そこではアスナ(=明日奈)という固有名によるゲーム内外の越境が、強制的に彼女の恋を終わらせてしまうだろう。昏睡した和人を見守る環境に促された直葉としての想い、キリトが和人であると知らないがゆえに育まれたリーファとしての想いは、まさに虚実の峻別を前提にしたものなのだ。そしてアスナとリーファの二項対立では、残酷なまでに前者が勝利してしまうのである。

 作者の川原礫も主人公のキリトも、アインクラッド編(虚実の解体)とフェアリィ・ダンス編(虚実の峻別)では前者の価値観こそを尊重している。茅場晶彦が常に特別なボスキャラクターであり、アスナが絶えず特別なメインヒロインである限り、このことは決して揺らがない。キリトたちは茅場晶彦のエコーに助けられ須郷伸之を倒し、ゲームの繁栄を守ると、トラウマでもあるはずのアインクラッドをアルヴヘイム・オンラインの世界に降臨させるだろう。そこで「ソードアート・オンライン」は守護霊的に回帰している。しかしそれは、リーファのような常人からすれば「遠すぎる」実存のように思われる。たとえば彼女には、ナビゲーション・ピクシーとしてのユイを本当に人間だと確信する瞬間があるだろうか?

 

 本作が優れているのは、虚実の区別を解体するにあたって私たちがなにを代償にしなければならないのか、正確に描き出している点である。先ほど私は「現実の命を虚構のレベルにまで引き下げる闇は、裏を返せば、虚構の命を現実のレベルにまで引き上げる光でもあった」と書いた。しかしそれは同時に、虚構の命を現実のレベルにまで引き上げる祝福の歌声が、現実の命を虚構のレベルにまで引き下げる呪詛の呻きに他ならないことを示している。ユイの涙をシリアスなものとして受け止める倫理の可能性は、サチの死を単なるパロディとして受け流す非倫理の不可避性でもあるのだ。その意味では、ビーターの咎を負うキリトの善は、プレイヤーを殺し続けるラフィン・コフィンの悪と背中合わせの関係にある(「ファントム・バレット」)。そこでは「ソードアート・オンライン」は怨霊的に回帰している。

 川原礫は『ソードアート・オンライン プログレッシブ』の執筆を通じ、キリトはアンダーワールドへの没入を通じ(「アリシゼーション」)、今なおソードアート・オンラインの亡霊と格闘しなければならない。そしてそれは、未だリーファに手の届く手紙ではないのかもしれない。これは言わばゴーストの囁きを聞いた者、それに憑かれた者たちのための物語なのだ。