鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

スピヴァク『デリダ論』について ――現代フェミニズムの地平(1)

 ガヤトリ・C・スピヴァク(1942~)はジャック・デリダ『グラマトロジーについて』(1967)の英訳を手がけ、そこに長大な序文(1976)を記した。彼女はデリダの略歴を紹介し終えるや否や、ヘーゲルデリダの関係から「序文」一般の問題を説いてみせる。さらにはハイデガーレヴィ=ストロースニーチェフロイトフッサールフーコーそしてラカンなどを参照し、彼を詳細に論じるのだ。そうした「デリダ論」を読むことで、フェミニストとしてのスピヴァクデリダからなにを受け取ったのか明瞭に察することができる。

 

 まずスピヴァクハイデガーを片手に注目するのは、デリダの「抹消の下に置く」身振りである(具体的には、こんな風に書くことである)。それは言わば、「唯一利用可能な言語を使用しながら、その前提には同意しないという戦略」(p32)だ。そしてその戦略は、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ(器用仕事)」という身振りと似通いつつも、微妙に異なっている。レヴィ=ストロースが自身のブリコラージュと他の技術工学を対立させ特権化するのに対し、デリダはそうした対立を解体しつつ保存してしまうからだ。彼は唯一利用可能な「唯一利用可能な言語を使用しながら、その前提には同意しない」戦略を使用しながら、その前提には同意しないのである。

 デリダの「抹消の下に置く」という態度は、ニーチェの「認識/忘却」の実践に等しいものである。彼は全てが解釈されたものに過ぎないと「認識」しつつ、それを「忘却」する。「一貫性のなさを維持し、二つの極を奇妙にも相互依存的にする」(p68)このトリックは、「抹消すると同時に読めるように残しておく」(p69)デリダの身振りそのものだ。そこに注意するかどうかが、デリダニーチェ論とハイデガーニーチェ論を大きく隔てていると言えよう。ニーチェのテクストを一貫させようと解釈したハイデガーを批判する形で、デリダニーチェの非一貫性を維持している。そして、こうした「抹消の下に置く」スタイルに巻き込まれ引き裂かれたのがフロイトである。彼の精神分析はテクストの非一貫性を保ちながら解読する技法として採用されながら、それ自体、一貫した体系として批判される必要があるからだ――ハイデガーが時間概念に四苦八苦しているのを横目で通り過ぎるために、デリダは「時間は心的機構の非連続な知覚だというフロイトの考え」(p122)を採用しているにも関わらず、である。これこそが、初期のフッサール研究の頃から続く「唯一利用可能な言語を使用しながら、その前提に同意しない」デリダの方法なのだ。

 以上のことから言えるのは、デリダは「構造主義」の後(poste)の思想家だということである。というのも、構造主義者(と見なされた者たち)は「抹消の下に置く」ことを考えていないからだ。たとえば、ミシェル・フーコーは「考古学」という「唯一利用可能な言語を使用」しながら、その前提を否認できない。ジャック・ラカンもまた、フロイト派精神分析という「唯一利用可能な言語を使用」しながら、やはりその前提を否認できないのだ(それゆえフーコーやラカンたち自身の危惧とは無関係に、彼らの思想はデリダより遥かに一貫した体系を持つ――要するに分かりやすいということだが)。簡単に言えば、フーコーは自身の考古学を考古学の対象にできないし、ラカンは自身の精神分析を精神分析の対象にできない。

 他方でデリダは、自身の脱構築脱構築するために「抹消の下に置く」。スピヴァクデリダから受け取った最大のものは、まさにこうした態度であるように思われる。もちろんフェミニストとしての彼女は、デリダの「男根=論理中心主義」に対する批判や「処女膜」という隠喩に惹きつけられただろう。しかしそれ以上に重要なのは、彼女がデリダに関して「フェミニスト的」という語を「抹消の下に置いた」ことである(p150)。スピヴァクは「フェミニスト的」という唯一利用可能な言語を使用したうえで、その前提に同意しないのだ。それは我々に、彼女が「フェミニズム」とどのような距離を保っているのかを教えてくれる。抹消の下に置かれたフェミニズム……それが我々の出発点である。

 

(訳は田尻芳樹訳『デリダ論』平凡社ライブラリー、2005に依った)

軽さと重さ、あるいは衝動としての愛 ――坂上秋成『惜日のアリス』について

 もし小説に「正しい読み」があるのだとすれば、おそらく私は『惜日のアリス』を正しく読むことができていない。それどころか、おおよそ「作者の意図」とは真逆の解釈をしてしまったように思われる。しかし、「それがどれだけ気まずく悩ましい瞬間だとしても、沈黙は決して誠実に結びつかない」(p116)。

 

 この作品は、二つのパートに分けられている。映画館を舞台に主人公「わたし」と算法寺道明の関係を中心に描かれた第一部(1~5章)と、バー「アテンション」を舞台に主人公「私」とナルナ、および莉々花との関係を主軸に据えた第二部(7~12章)に。ここで注目すべきは、どちらのパートにおいても「わたし=私」が似た過ちを犯してしまうことである。すなわち、第一部で借金を背負っておばあさんの葬式を挙げたこと、第二部で算法寺道明に一方的な別れを告げたことだ。一言で言うなら、それらに共通しているのは「軽さから重さへの転位」である。彼女は自由で拘束力が弱い(軽い)関係性を、不自由で拘束力が強い(重い)関係性に変化させてしまうのだ。

 まず、第二部の関係性から見ていこう。バー「アテンション」のコミュニティは、要するに「軽い」。そしてそれは、彼らが法や契約といった面倒くさいものに縛られていないからだ。そこには誰でも、いつでも好きなときに出入りすることができる――その軽さは、たとえば旧守的世間に認められない実存の受け皿にもなる。「私たちは、鉢の中に集まり、共に時間を過ごしながら、状態が悪くなったらまた別の金魚鉢に移るの。その代わりに新しい金魚が入ってくる」(p209)。だが「私」は、算法寺道明が「アテンション」に参入するのをあからさまに拒む。そのとき彼女の中で「アテンション」は決定的に軽さを失い、同時期に店の常連は少しずつ顔を出さなくなっていく。

 このことは、「アテンション」で知り合ったナルナ(および莉々花)との家庭にもネガティブな影響を及ぼす。現在の日本という国家は、「私」とナルナのような関係を保証してはくれない。ナルナ自身も、そうした保証に支えられた息苦しい信頼を求めていないように思われる。その意味で、「アテンション」と同じくナルナ一家もまた「軽い」共同体である。「あなたの今の言葉は、私を楽しませようとするものではなく、私とあなたをどこかにはめ込むために紡がれたものね」(p149)。しかし「私」は、言葉の暴力を用いて算法寺とナルナの接近可能性を断ち切る。結果、ナルナの軽さは暗に否定され、彼女と莉々花は「私」を捨てて失踪するのだ。「ここは随分とあなたに優しい場所ね。だからこそ、あたしと莉々花は別のところに行かなくてはならなかったの」(p197)。

 以上を踏まえて第一部を鑑みると、「わたし」が第二部と似たような岐路に立たされていたことが分かる。映画館の主であるおばあさんが亡くなったとき、「わたし」は借金を背負って彼女の葬式を挙げるのだ。おばあさんが結局のところ一人の雇用主に過ぎないにもかかわらず、である。この借金は不穏な足枷になって、算法寺の崩壊の伏線として機能するだろう。つまり「わたし=私」は、本来なら自由で拘束力の低い関係性に、不自由で拘束力の強い関係性を――社会的に真っ当な承認を?――導入してしまう衝動の持ち主なのだ。「そうよ! そうよ! そうよ! ねえ、あたしはちゃんとしたいだけなの」(p149)。それが読み手の私に「私=わたし」への共感を許さず、終盤のナルナに対する感情移入や算法寺への同情を誘う読書体験をもたらした。

 とはいえ重要なのは、『惜日のアリス』が最終的には「わたし=私」の衝動を部分的に肯定していることである。バー「アテンション」の常連は彼女の働きかけを通して復活し、算法寺との緩やかな和解や成長した莉々花との再会によって作品は終わる。付け加えれば、おばあさんの葬式で泣き崩れる男がいる。そうであれば、この小説が「わたし=私」の行動に極めて両義的な評価を下していることは疑いを入れない。彼女は「軽さ」に耐えられず「重さ」を欲する、言い換えれば、交換可能性の自由に耐えられず交換不可能性の不自由な世界を望んでしまう。それはなぜなのか――その不合理な衝動は一体どこから来るのか? 章タイトルにその答えを探すと……「ひょっとしたら人はそれを愛と呼んできたのかもしれない」という一文が私の目に止まった。

 

 作者の坂上秋成氏は佐藤純一氏との対談(※)において、「疑似家族」が孕む「リスク」をテーマのひとつに並べている。だが私という読者には氏の語る「リスク」が半ば「メリット」のように聞こえ、「わたし=私」の振る舞いからは「リスク」自体よりむしろ「リスクがあるということにしたい」欲動を受け取った。真逆の解釈をしてしまった、というのはそういうことである。

 

(※)……NETOKARU「『惜日のアリス』刊行記念 坂上秋成×佐藤純一対談」 http://netokaru.com/?p=17506

ネグリ+ハート『マルチチュード』について ――ドゥルーズ+ガタリとのスタイルの差異など

 アントニオ・ネグリ+マイケル+ハート『マルチチュード――〈帝国〉時代の戦争と民主主義』(2004)は、『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(2000)の続編である。そもそも『〈帝国〉』は、グローバリゼーションに伴って現れた新しい世界秩序を〈帝国〉と名指し、それに対抗しうる可能性を「マルチチュード」と呼んで仄めかす書物だった。〈帝国〉とは国境を超えたネットワーク状の権力であり、マルチチュードとはそのネットワークを逆手に取って連帯し合う主体群のことである。『マルチチュード』は〈帝国〉時代に生じた戦争の在り方について記すとともに、このマルチチュードが推進する民主主義の希望について述べた書物、と要約できよう。

 

 著者のひとりであるアントニオ・ネグリは、もともとオートノミズム(自治主義、自律主義)の指導者として知られていた。1979年、極左組織「赤い旅団」のテロを主導した冤罪で逮捕されると、1983年に獄中で議会選挙に立候補し当選、特権によって釈放された数ヵ月後にフランスへ亡命する。1997年に帰国して自主的に収監され、2003年に正式に刑期を終えた……という、なかなか凄まじい経歴の持ち主である。2008年に訪日した際は事実上の入国拒否を言い渡されたが、2013年の首相官邸前抗議行動には顔を出したようだ。

 ところでオートノミズムは社会主義のひとつだが、国家や労働組合や政党に頼らない自律的な階級闘争を重視する、労働者階級そのものをかなり広く定義する、などの特徴を持っている。またオートノミズムを支持するフェミニストなら、非賃金の女性労働を重視したりもするだろう。こうした思想がネグリ自身のスピノザ研究とマルクス研究、さらにもうひとりの著者マイケル・ハートドゥルーズ研究と出会うことで、マルチチュードなる概念を生み出したのであろうことは想像に難くない。まさにマルチチュードとは、従来の労働者階級の定義に縛られず、次世代的な階級闘争の形を提示する〈危険な階級〉なわけだから。

 筆者がここで注目したいのは、ジル・ドゥルーズ(およびフェリックス・ガタリ)とネグリ+ハートの差異である。ドゥルーズ+ガタリの抽象的かつ難解な内容に比べると、ネグリ+ハートの哲学は極めて具体的であり明瞭であり、誤読の余地が少ないものになっている。このことは、ハートの『ドゥルーズの哲学』がドゥルーズを政治的ないし実践的に読み込む書物だったことを考えれば、容易に納得できよう。スピノザの汎神論やドゥルーズ+ガタリの「機械」概念、またミシェル・フーコーの「生権力」概念などが、ネグリ+ハートの思想においては単純化され(さらにしばしば意図的に曲解され)、政治的なものに特化させられている。ネグリはしばしばドゥルージアンと称されるが、彼は決してドゥルーズ思想の素朴な継承者なわけではない。

 たとえば『マルチチュード』の文章には、ドゥルーズ+ガタリなら決して書かなかっただろう箇所がそこかしこに散見される。序文では本書が概念を扱う哲学書であることを断った上で、《本書に「何をなすべきか?」という問いに答えたり、具体的な行動プログラムを提示したりすることを期待しないでいただきたい(中略)どうか忍耐強く読み続けていただきたい》(p24)と記している。そして想定される批判には、前もって応答しておくという親切心すら見せるのだ。それはドゥルーズ+ガタリが《いずれにしても、誤解を見越して反論するにはおよびません。誤解の予測なんてできっこありませんからね。それに誤解が現実のものとなったあとも、誤解と戦う必要はないのです》(「フェリックス・ガタリとともに『アンチ・オイディプス』を語る」)と述べていたのとは対極の位置にあると言ってよい。そこにネグリ+ハートの誠実さを読み取れるし、あるいはドゥルーズ+ガタリの大胆さに改めて驚きもする。

 

 なお『マルチチュード』は、2001年から2003年まで続いたイラク戦争とほぼ同時並行で書かれた書物でもある。それゆえ第一部「戦争」の文章は、アメリカ合衆国の単独行動主義を正面から批判するという文脈を負い、第二部「マルチチュード」および第三部「民主主義」で語られる希望に切迫感を与える結果となった。10年ほど経った今でも、ネグリ+ハートが「例外状態の全面化」と形容したグローバルな戦争状態は終わる気配を見せてくれないし、「民主主義の危機」を唱える論者も数多い。彼らの構想する「全員による全員の統治」は一見すると荒唐無稽な夢物語に感じられるが、しかしシリアスな夢であることは確かなのだ。

 

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

アイドルとファンの垣根を越えて。 ――TVアニメ『ラブライブ!』論

 TVアニメ『ラブライブ!』は、音ノ木坂学院の生徒である高坂穂乃果たちが、スクールアイドルとして活動する学園ドラマである。そもそも『ラブライブ!』とは、架空のスクールアイドル「μ’s」の日常や物語を雑誌上で展開しつつ、PV付きの楽曲を販売するという合同プロジェクトだった。その特色のひとつは、ユーザーが企画に「参加」できるということにある。具体的にはユニット名やミニユニットの構成、さらにPVのセンターポジションやイメージガールの決定にユーザーの声が反映されるのである。これは、かつてのアニメやゲームにはあまりない試みと言ってよい。

 TVアニメ『ラブライブ!』は、これまで断片的に示されるだけだったアイドルたちのストーリーを明確に描き出す役割を負っていた。とはいえその内容は単なる補完を越えて、極めて批評的なテーマを持っていたように思われる。先に結論を言うなら、そのテーマとは「アイドル」と「ファン/アンチ」の相補的な関係である。もともとの合同プロジェクト『ラブライブ!』が採用した「ユーザー参加」という形式を、TVアニメ版のエピソード群は象徴レベルで反映しているのだ。本稿では現在進行中の漫画版は一旦脇に置き、主にTVアニメ版に話を絞って進めていこう。

 

 まず、第三話のラストを見てみよう。この時点で「舞台」に立つ「μ’s」メンバーは高坂穂乃果、園田海未、南ことりの三人のみである。のちにグループに加わる小泉花陽、星空凛、矢澤にこ、絢瀬絵里、東條希、西木野真姫は、未だファンないしアンチとして「観客席」に佇んでいるわけだ。その意味で彼女たちは、『ラブライブ!』というプロジェクトの「ファン」あるいは「アンチ」である現実の私たちと構造的に同一なのである。このことは、たとえば作中で希が「μ’s」というユニット名を考案したことなどからも了解できよう。リアルの世界におけるファンとクリエイターの共同作業が、フィクションの世界においてはアイドルたち本人の営みに転位しているのだ。

 ここで重要なのは、第四話から第一〇話までの流れである。「ファン」や「アンチ」であった少女たちが、次々と「μ’s」のメンバーになっていくのだ。それは現実の「ユーザー参加」という形式を、より突き詰めた形で反映させたものだと言える。いささか乱暴に要約するなら、TVアニメ『ラブライブ!』は、ユーザーの「アイドルを応援したい」という間接的な望みを「アイドルになりたい」という直接的な願いに推し進めたうえで叶えてみせるのだ。従来の「アイドル/ファンとアンチ」という隔絶を解体しようとする想像力が、この作品にはある(なお、似たような分析が可能な漫画として『AKB49』などが挙げられる)。

 しかし、第一一話および第一二話でひとつの問題が生じる。それは「ファン」や「アンチ」であった少女たちが「μ’s」に参入すればするほど、「アイドル」にとっての外部的メインキャラクターは失われていくということである。事実、抑圧のなくなった主人公の高坂穂乃果は暴走して体調を崩し、また幼馴染である南ことりの悩みに気づけないという大失敗を犯してしまう。結果として「μ’s」は、スクールアイドルのトーナメント「ラブライブ!」へのエントリーを取り消してしまうのだ。この事態は、『ラブライブ!』というプロジェクトの形式と本作の構造が一致しなくなったこととパラレルの関係にある。アイドルとファンは、あくまで別の項として区別されていなければならないだろう。かといって単に「アイドル/ファンとアンチ」の構図に回帰するだけでは、旧来のスタイルに逆戻りするだけである。

 

 では、どうすればよいのか。ここで解決の鍵となる人物こそ、高坂穂乃果のもう一人の幼馴染・園田海未に他ならない。最終回の彼女は、「アイドル/ファンとアンチ」の二分法を回復しつつ再解体するという恐ろしく複雑な操作を行っているのだ。

 自分を責めて「μ’s」を脱退した高坂穂乃果は、矢澤にこや絢瀬絵里といった人物に後押しされ、誰もいない舞台に立ってひとり決意を新たにする。そこへ園田海未が現れ、観客席に留まったまま彼女を励ますのだ。第三話での「アイドルの少女たち(舞台)/ファンやアンチの少女たち(観客席)」という対立軸のイメージは、このシーンであからさまに復権させられる。他方で園田海未は、既に「μ’s」を辞めていた南ことりを引き留めるよう高坂穂乃果に伝えるのだ。直前に再演した「アイドルの少女たち(舞台)/ファンやアンチの少女たち(観客席)」の図式は、南ことりの再加入というイベントによって二度目の脱臼を果たすのである。「アイドル/ファンとアンチ」の懸隔を近づけては戻し、もういちど近づけてみせること。筆者は、TVアニメ『ラブライブ!』の主題をこの絶え間無い運動に見出すのである。

ボカロ時評2013年3月現在 ――くるりんご、椎名もた、じーざすP、みきとP

① くるりんご『幸福な少年』(PV:くるりんご)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20184946

 3rdアルバムから発表された『幸福な少年』は、初のデジタルなイラストレーションや「語り」の導入等によって、くるりんごにとって新しい局面を見せる作品となった。印象的なのは、意図的に音割れした初音ミク鏡音リンの声がテレビ上の「不幸」を語るやいなや、一転してクリアボイスのGUMI(=少年?)が身近で強靭な「幸福」を語ってみせる、その流れだろう。「本日午後四時、僕が此処に生きてるって事はあなたしか知らない」というシンプルな〈いま・ここ〉の肯定は、少年が病弱の身であるというラストの展開も相まって、くるりんごの世界観を存分に伝えてくれる。

 

② 椎名もた『3年C組14番窪園チヨコの入閣』(PV:森井ケンシロウ

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20238968

 1stミニアルバムから発表された『3年C組14番窪園チヨコの入閣』は、タイトルからして否応にも『怪盗・窪園チヨコは絶対ミスらない』の続編的内容を期待させる作品だった。だが、森井ケンシロウ(『ストロボライト』も担当)によるPVはさらにその上を行く過激なもの、すなわち「窪園チヨコ」というキャラクターの生成それ自体だったと言ってよい。チヨコの記号は「ギターを背負った少女」と「眼鏡をかけた少女」に分割され、二人はゲーム然とした追いかけっこをしたかと思えば、ギター少女は唐突に相手の眼鏡を奪って撲殺しようとする。分裂した人格の殺害による統合――とでも纏めてみたくなるその物語は、鏡音リン(キャラクター)と椎名自身(人間)によるハーモニーの操作を経て、極めて批評的な寓話に変奏されるだろう。

 

③ じーざすP『しんでしまうとはなさけない!』(PV:グライダー)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20331479

 じーざすPとグライダーとの『リモコン』『BUNKA開放区』に続くコラボレーション三作目『しんでしまうとはなさけない!』は、言わば王道RPGのパロディ。仮に「ボーカロイドにしかできないタイプの曲」というものがあるなら、じーざすPとグライダーの二人組はそれらを制覇してしまったのかもしれない。すなわち『リモコン』で「リスナーとボーカロイドの関係」を仄めかし、『BUNKA開放区』で「ボーカロイド同士の物語」を描いたあと、『しんでしまうとはなさけない!』において「ボーカロイド同士の物語」をクライマックスで「リスナーとボーカロイドの関係」に開くというアクロバットを決めたわけだ(※)。

 

④ みきとP『クノイチでも恋がしたい』(PV:さいね)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20413055

 1stメジャーアルバム『僕は初音ミクとキスをした』収録の『クノイチでも恋がしたい』は、みきとP代表作のひとつ『サリシノハラ』と合わせて聴くことで、その魅力をより引き出せるように思われる。あからさまにAKB48指原莉乃のスキャンダルに応答してみせた『サリシノハラ』を踏まえると、『クノイチでも恋がしたい』の「恋愛禁止の掟と自身の感情の狭間で葛藤するクノイチ」という物語が、にわかに現代的戯画としての色を帯びてくるのだ。結末で彼女が「女(クノイチ)は女を捨てなさい」という理不尽な命令に従ったのか背いたのかは、もはや言うまでもないだろう。

 

(※)このあたり、いつか詳しくまとめてみたい。

【文学フリマ】 「ウェブニタス」「『青い花』評論集」「『たまこま』評論集」に寄稿しました。

 4月14日(日)の文学フリマ in 大阪、および28日(日)の超文学フリマ in ニコニコ超会議に参加することになりました。

 

① 土塊(@dokai3)氏編集の評論系同人誌「ウェブニタス」に、文章を書かせて頂きました。タイトルは、「彼女は虚構に回帰する。――ボカロP、Dixie Flatline論」になります。

 公式はこちら:http://d.hatena.ne.jp/dokai3/20130327/p1

 

② そして、たつざわ(@tatsuzawa)氏編集の評論系同人誌「話の飛躍についていけません――志村貴子『青い花』評論集――」にも、文章を書かせて頂きました。タイトルは、「理想としての精神、現実としての肉体――志村貴子『青い花』論」になります。

 公式はこちら:http://www.hyoron.org/aoihana2

 

③ さらになんと、同氏のもうひとつの評論系同人誌「誰が何を書いてもいいんだよ――TVアニメ『たまこまーけっと』評論集――」にも、急遽文章を書かせて頂くことになりました。タイトルは、「外来的な進捗、日本的な停滞――TVアニメ『たまこまーけっと』論」です。

 公式はこちら:http://www.hyoron.org/tamako2

 

 お買い求めの際は、ぜひぜひお読み下さればと思います。

「人それぞれだよ」がダメな理由――井上達夫『世界正義論』感想

 井上達夫『世界正義論』は一言で言えば、「国境を越え、覇権を裁く正義」としての世界正義を追求する書物である。それゆえ、彼は「正義は国境を越えられない」という立場と「正義は身勝手に国境を超える覇権的なものでしかない」という立場を共に乗り越えなえればならない。要するに、井上は「正義は人それぞれだよ」論と「正義の押し付けはよくないよ」論の両方を反駁する必要に駆られているのである。

 本書は五つのパート、すなわち①メタ正義世界論、②国家体制の国際的正統性、③世界経済の正義、④戦争の正義、⑤世界統治機構に分かれている。このうち①②③が「正義は人それぞれだよ」論への応答であり、④⑤が「正義の押し付けはよくないよ」論への応答である。まず、井上は「そもそも世界正義は可能なのか?」「可能なら、国際的に正しい国家体制はあるのか?」「そうした国家は、世界貧困の解決に取り組むべきなのか?」に答え、正義が国境を越えることを示すだろう。次に彼は「正義のために戦争をしてもいいのか?」「世界はどのように統治されるべきなのか?」に答え、正義が覇権を裁くことを教えてくれる。

 

 乱暴との誹りを覚悟しながら、単純に整理していこう。「正義は人それぞれだよ」論者にとっては世界正義など初めから不可能である以上、国家体制も好きにすればいいし、世界貧困の解決に腰を上げるかどうかも自由である。というのも、あらゆる価値観は相対的な「イデオロギー」に過ぎないから、というわけだ。そこにあるのは、国家の内外で正義の基準が異なっていても構わない、ヒエラルキー社会であろうと「節度」が守られていればいい、経済だって貧窮国民の「自己責任」ではないか、という意識である。それに拍車をかけるのは、正義よりも平和の方が大切だ、という諦観的平和主義だろう。言い換えれば、「なにをしてもいいが、他人に迷惑をかけるな」論である。

 井上は、この立場に論争を仕掛けている。世界正義は可能であり、国家体制を「好きにすればいい」で済ますことはできず、世界貧困の解決を目指すかどうかは「自由」な問題ではない。既にグローバル化が浸透している現在、国家の内外で正義の基準は同じでなければならない。また、ヒエラルキーを「節度」において許すこともできない。そのような社会を認める行為は、当の差別に国際的な特権を与えることに他ならないからだ。そして経済は、貧窮国の「自己責任」だけではなく富裕国の「加害」を考慮すべきである。ならば私たちは積極的であれ消極的であれ、財産を「分け与える」と同時に「お返しする」義務を持っているはずだ。結局のところ、正義よりも平和が大切だ、という諦めは自壊せざるを得ないのである。「なにをしてもいいが、他人に迷惑をかけるな」論に対する『世界正義論』の反論は、「今まさに我々は他人に迷惑をかけているのだから、なにをすべきか考えろ」というものになるだろう。

 他方で「正義の押し付けはよくないよ」論者の反発は、「正義は人それぞれだよ」論者のそれよりも遥かに込み入っている。彼らにとっては世界正義など覇権国家(たとえばアメリカ?)の身勝手でしかない以上、いちいち国家体制に口出ししてほしくないし、世界貧困の解決を言い訳に搾取されたくもない、ましてや戦争の正当化なんて論外だし、世界統治機構とやらも御免である。だいたい欧米の都合でしょ、というわけだ。これに対して井上がどのような説得を試みているのかは、実際に読んで確かめて頂きたい。個人的な印象では、井上はこちらのハードルを克服する方が苦戦しているし、また苦戦すべきだと思われる。

 

 私は基本的に、哲学に関して「議論」や「説得(説き伏せ、従わせること)」が好きではない。それよりも「誘惑(誘い、導くこと)」が哲学の本性だ、と考える方が性に合っている。だがこのことは、「押し付けはよくないよ」という意味ではあっても「人それぞれだよ」という意味ではない。というか、私はおそらく「議論」や「説得」以上に「人それぞれだよ」が嫌いだろう。それは端から他人の話をシリアスに受け止めず、コミュニケーションを断絶させるような態度だからだ。

 いかに「押し付け」の横暴を避けつつ「人それぞれ」の欺瞞を退けるか。地味かつ地道なこの努力こそ、本書を真の意味で「論争的」にするものである。