鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

名和晃平「シンセシス」とデジタルな視線


 その展示は、何回でも順路を辿ることができた。
 初めの部屋にあるのは、四角い箱の数々だった。その内側にはそれぞれ植物や椅子、食べものや靴が収められているらしい。しかし目をこらし、また見る場所を変えると、内側のオブジェは揺らぎ、二重になり、ときどき消えてしまう。それらは本当にそこにあるのではなく、四角い箱の表面に張り付けられた、ただの虚像だった。
 次の部屋に行くと、鹿の剥製がいくつか置かれていた。ただ、剥製たちは裸のままではなく、表面を隙間なく透明な丸い粒で覆われていた。粒たちは大きさもまちまちで、また剥製への散らばり方にもむらがあった。それらによって、内側にあるはずの剥製の姿はぼやけ、眺めるこちら側の立ち位置に応じて形を変えてしまう。ふと、内側にあるのは本当の剥製ではなく、初めの四角い箱のような虚像なのでは、という疑いが頭をもたげる。それを確かめようと剥製に、粒の群れに近づく。すると粒の一つひとつに、剥製を眺めるわたしの顔が映し出された。丸い粒のなかで光が屈折し、鏡になって周りを反射していることが分かる。だがその前に、丸い粒という形のせいか、わたしはそれを鏡ではなく「眼」だと感じた。わたしが作品を見ているのではなく、作品がわたしのことを見ているのではないか、と。鹿の剥製はその一体だけではなく、首だけの剥製が壁にたてかけられているもの、また別な動物の剥製も続く。しかも剥製のなかには、ただの剥製ではなく、鹿なら同じ鹿を二つ繋げ、重ねて一つにしたものがあった。一体とも二体とも知れない剥製は、粒々のなかで、まるでこちらの眼の前がぼやけて二重になったような姿をしている。二重、という言葉から、わたしは再び初めの部屋を思い出す。ここでは「見ることの意味」が揺らぐ――作品は揺らぎ、二重になり(眼球は二つなのだから)、ときどき消えてしまう。それがあたかも、見る側の眼に問題があるかのように。そしてそれらの仕掛けを通して、彼ら作品は見る側を逆に覗き込んでいる――。名和晃平「シンセシス」に対して、まず考えたことはそういった類のことだ。


 その展示は、何回でも順路を辿ることができた。一度目の順路を終えたわたしは、ゴール近くの壁に長方体の穴が掘られていることに気付いた。そこには、作品を解説する大きな一枚の紙が積まれていた。
 わたしはその紙を読むことで、初めの四角い箱の部屋が「PRISM」、次の剥製と丸い粒の部屋が「BEADS」と名付けられていることを知った。そうして全ての部屋には名前がつけられ、順路は俯瞰されている。すると、部屋ごとの作品とモチーフ、テーマが共通し、響き合っているのがより伝わってくる。たとえば三番目の部屋「THRONE」を過ぎたところにある「POLYGON」。その部屋には、巨大な彫像が窮屈そうに並べられていた。もちろんただの彫像ではなく、鹿の剥製のように、同じ姿のものが二つ繋げられ、重ねて一つになっていた。そして彫像の片側は粗くごつごつしたポリゴンで、もう片側は本来の彫像に近い、なめらかで細やかなものだ。二重というテーマは、四角い箱、鹿の剥製と通じ合っている。それは眼そのものが二つであること、よって見られるものは必ず二重になることを物語っているようでもある。のみならず、わたしたちに常に付きまとう「影」、わたしたちを二重にするあの「分身」の比喩でもあるだろう。「POLYGON」に続く「VILLUS」の部屋もまた、二重だ。モチーフは長い列をつくり、一つの部屋に収まらず「POLYGON」の部屋へも伸びてしまっている。そこにまず二重がある。しかもその列は、半分を東京の銀座で、もう半分をバングラディシュのダッカで発表された代物を、一つの軸の上に載せて展示したものだ。これも作品の外に広がる、地理的な二重と言えよう。
やがて「DRAWING」をくぐり抜け「GLUE」に向かう。作品は、穴の穿たれた透明な板を、間を開けて積み上げた立方体だった。その穴は、こちらの見る位置に応じて様々な模様を描き出す。それは四角い箱の内側が、見る位置に応じて揺らぎ、二重になり、ときどき消えたことを思い出させた。そうした視点の問題は、次の「SCUM」のそのまた次にある最も大きな部屋「MANIFOLD」に連なる。彫刻が等間隔に横たわる空間のほぼ中央、台座の上に極小の人形が立っている。彼らは台座の中空に浮かぶ雲のごとき彫刻を仰いでいるかのようだ。その雲=彫刻は人形からすればはるかに大きいが、周りの彫刻と比べれば、人形と同じく極小と呼んでいい。極端な大と小に挟まれ、その部屋は普段より雄大な空間を形づくった。さらに壁のスクリーンは、極小の雲=彫刻をあたかも極大であるかのように撮ったビデオの映像を見せてくれる。映像は、その部屋ではなによりも小さな人形の視点なのではないかと思われる。
 隣の部屋「MOVIE」は、床の画面に無数の粒が描かれ、それらが細かく、しかし激しく震えていた。その上を歩くと、まるで床が地震かなにかで揺さぶられているように感じられる。さらに隣の部屋「LIQUID」では、水面に現れては消える無数の泡が作品だった。ここまで来てわたしは、剥製を覆う粒、「DRAWING」で壁に描かれた無数の細胞、「GLUE」で透明な板に穿たれた穴、それらを全て思い出す。さらには「VILLUS」「SCUM」にて、モチーフの表面に浮かんだ醜い「吹き出物」を。そう、剥製の丸い粒がそうだったように、それは「眼」、作品を眺める側のわたしたちを逆に見つめ返す「眼」だったのだ。それを明らかにするのが、最後の部屋である――もう一つ「MOVIE」があった――二重――。その床には再び無数の粒が描かれ、細かく、激しく震えている。違うのはそれが色付きであるところ、そして、その部屋を歩くわたしたちの影を二つに分裂させてしまうところだ。天井の明かりの技によって別々の方角に伸びた二つの影は、床の上で別々の色を付けられている。二つの影はまた、別の人と重ね合わせることで元の黒色に戻る。ここでわたしたちは、きわめつけの「逆に見られること」を体験する。なぜなら、それまでの作品のように、わたしたちもまた二重にさせられ、揺らがされ、そして消されてしまう――展示からの退場、という方法で――からだ。展示のあらゆるテーマが、ここで収束する。入り口=出口の壁には、網状の模様が貼り付けられていたが、思えばその網目は既に、粒と穴と泡の不気味さを示していたのだ。


 その展示は、何回でも順路を辿ることができた。
 もし一人でその場に来ていたら、わたしは「シンセシス」の最後の仕掛けに気付かなかっただろう。三度目の巡回は要らないと思い、わたしは一緒に来ていた知人と美術館をあとにした。が、そこでお互いに解説の大きな紙を見比べると、裏側一面にある作品の写真が違っていたのだ。順路の終わりに積まれたその紙にはいくつかのパターンがあるらしく、それは、何度も順路を辿れる展示の「永遠性」と対になった「一回性」の表れかもしれなかった。わたしの紙の裏側一面にあったのは、現れては消える無数の泡「LIQUID」、知人のそれは四角い箱の虚像「PRISM」だった。