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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

性的なもの、政治的なもの(上) ――大江健三郎『性的人間』論――

代理=表象、そして法の裁き
「性的人間」という作品に対し、作者である大江健三郎本人は次のようなことを述べている。「「性的人間」と「政治的人間」。政治的に牝になった国の青年は、性的な人間として滑稽に、悲劇的に生きるしかない。政治的人間は他者と対立し、抗争し続けるだけだ」(大江健三郎大江健三郎 作家自身を語る』64p)。ここではタイトルの性的人間という語は、政治的人間と対になっているようである。しかし、本当にそう言えるのだろうか。試しに、「政治的人間」という語が実際に作中で用いられている箇所を挙げてみるとしよう。それは「戦後の日本のもっとも激しかった政治的動揺の時に、国会をとりまく十万人のデモンストレイションの群衆のなかで一人の痴漢がつかまった」場面である。「かれが警官に告白した言葉、《いま十万人の怒れる政治的人間が、いまはその時期じゃないとして放棄している十万人ぶんの性的興奮が、連中のなかでつまらない娘の尻をねらっているわたしひとりだけの特権的な指に集中してくるようで、わたしの指はもの凄い至福の熱に燃えあがりました。しかも、武装した第四機動隊の厖大なポリス群のまえで、それをやったんだから!》かれらは日々の厳粛な綱渡り師だ……」(81p)。ここでは、かれが行なった痴漢という行為が、政治的人間が放棄している性的興奮の代理=表象であるかのように語られている。すなわち、あなたがそれをしない代わりに、わたしがそれをやってあげよう、という。この代理=表象はというシステムは、間接民主主義というわたしたちの政治にも見られる。議員たちはわたしたちの代表(代理=表象)であり、その言葉には民意が反映されている、と。この場面では、性的なものと政治的なものが混ざり合い、一つの場に現れている。それを読み取るだけで、性的人間と政治的人間という二つの語は、もはや単なる対の関係でないことが分かるだろう。これは偶然ではない。少年の痴漢が行なわれる性的な場は「国会議事堂前駅」、すなわち政治的な場でもある。さて、性的人間と政治的人間の関係をねじれさせるこの痴漢という行ないに着目したい。作中において、この「痴漢」という語はどのような意味を持っているのか。この箇所をさらに遡ると、次のようなことが綴られている。「痴漢たちは、たいてい沈黙して行動しているものだ、かれらがおしゃべりなら、かれらの行動も饒舌も滑稽にカラまわりするだけだ。痴漢たちは、サーカスの綱渡り師たちとおなじように沈黙している。しかし、いったん捕えられて、他人どもの敵意の眼によって痴漢としての認識票があたえられ、痴漢の本質が確定すると、痴漢たちのなかには感動をよびおこす自己宣伝をおこないはじめる者がいる」(81p)。この箇所の続きが、先ほどの引用に繋がる。痴漢とはつまり、沈黙し、敵意の眼によって本質が確定し、中には雄弁に語りだす者もいる、そういった人間である。ここで性急に一つの結論を述べてしまおう。敵意の眼によって認識票があたえられたときに本質が確定することは、わたしたち人間の全てに共通したものである、と。敵意の眼による認識票とはつまり、法による裁きを意味する。ラカン派精神分析によれば、法の裁きこそが主体をその世界に位置づけるものであり、象徴界を構成するものである。ラカンが分析したあのエメという女性を救ったものは、比喩ではなく実際の法の裁きだった。想像界鏡像段階的な嫉妬の世界に囚われていた者を救う象徴界、法の裁き。母と子の関係を断ち切り、その子に名を与える父の存在(父の名=否)。作中での痴漢という語は、すなわちわたしたち全てに当てはまるような構造を持っている。それを抜きに、現実世界における痴漢行為の犯罪性を云々しても、それは「性的人間」を語ったことにはならない。よってこれから、痴漢という語に伴って現れた敵意の眼、そして沈黙という語について考えなければならない。そして、やがて痴漢を行なうことになる主人公・Jについても。「痴漢としてのかれはじつに様々の伏兵を、禁忌を、外部社会からの敵意にみちた制止信号を発見した。生れてからそのときまでJは外部社会がそのようにかしましく自己主張的にかれにむかって起きあがってくるという印象をうけたことがなかった。Jは反社会的な行動家としての痴漢になった日、社会の存在感についてもっとも敏感になったわけだ。この時期に、鋪道上のJを見かけた人々はJのことをたとえようもなく堅固な道徳家だと信じたにちがいない、痴漢への回心をおこなったばかりの苦しい徒弟修業期間のJを……」(95p)。敵意に満ちた制止信号という語は、既に見た「法の裁き」に回収されるであろう。だが、ここで新しく登場した「反社会的」という語は、また別に考えなければならないであろう。そしてJという名もまた――ラカン派精神分析における最初の「法」が「父の名=否」だったことを思い出そう――新たに考えなければならない問題としてある。
 追補――実際、作中における痴漢行為や反社会的な性に対して、必ず現れるものが敵意の眼、視線である。そしてそれが法の裁きによる救済に近しいこともまた、次に挙げた多くの箇所の中で明らかになるだろう。「「あの人たちは、姦通した女を辱しめにきていたのよ」とJの妹が、兄にだけささやきかけるように低い憂鬱な声でいった。「わたしたちが疎開してきていたときにもこういうことがあったわ。あの家に姦通した女がかくれているのよ。家の出入り口は板でうちつけられているんだと思うわ。今夜はあの人たちのかげになって見えなかったけど」/「真夜中に集まってきてどうするんだ? 辱しめるといっても、なあ?」/「ただ、じっと家のまえに立っているだけよ、村じゅうの女たちや老人や子供が! それに男たちがいるときは、男たちまで! それで充分に辱しめることじゃない? 胸が悪くなる、思ってみるだけで」」(14p)。「そして子供は憎悪の毒にまみれた奇妙なキンキン声で《おら見たがぜ!》と叫んだ」(49p)。「あいつはトレンチコートを剥ぎとられ裸で小さな皺のような眼とふやけたペニスからしずくをたらし自涜したチンパンジーみたいな恰好で警察へひかれてゆく自分を予感しているに違いない。股倉はすでにかたまってきている涙のような色の精液のゼリイでこわばらして、数しれない敵意の眼のまえで」(68p)。「かれの精液はもうぬぐいがたく確実に娘の外套を汚しひとつの証拠として実在していた。一瞬、一千万人の他人どもがJを敵意の眼で見つめ、J! と叫びたてるようだった。至福感とせりあっていた恐怖感の波が限りなく膨張してJをのみこんだ。数人の腕がJをがっしりとつかまえた。Jは恐怖のあまり涙を流しその涙を自殺した妻があの夜のあいだ流しつづけた涙の償いの涙だと思っていた」(119p)。まさに、主人公に償いの涙を流させるのは、一千万人にも感じられる敵意の涙によってなのである。この涙というものが、精液のゼリイの色を描く比喩として現れる一方、法の裁き=視線と同じ場所(目)から発するものであることも確かめたい。そうして涙という救済は、敵意の眼、そして反社会的な性と結びつくのである。