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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

果たして「他者」はどこにいるのか? ――『シュタゲ』と『クオリア』

 シュタインズ・ゲートは、その物語から紫色のクオリアと比べられることが多い。どちらも、大切な人が死んでしまったために、主人公がタイムリープを繰り返してその人を救おうとする点が共通している。『シュタゲ』ならば岡部倫太郎が椎名まゆりを、『クオリア』ならばマナブがゆかりを、それぞれ助けようとする。
 ところで、しばしば『シュタゲ』よりも『クオリア』の方がテーマ的に優れているという批評が存在する。すなわち、前者には「他者」がいないが、後者にはその「他者」がいる、ということらしい。ここでの「他者」とは、たんなる他人ではなく、なにか主人公とは異なる主体性を持った者のようだ。
 具体的に見てみよう。『シュタゲ』は椎名まゆりを助けようとする際、彼女の気持ちを重視していないという。この作品では、まゆりの命を救えば、一方でもう一人のヒロインである牧瀬紅莉栖が死ぬことになっている。どちらを生かし、どちらを殺すかは主人公の岡部に委ねられているのだ。だが、その際まゆりや紅莉栖の気持ちは主な物語として立ち上がってこない、とそうした批評家は言う。たとえば、まゆりの命が危ないことはほとんど完全に彼女自身には伏せられているし、紅莉栖もまゆりも「自分は他人を犠牲にしてまで生き延びたくない」と言うが、最後の決め手は岡部の意志でしかない。
 どうやらそうした批評家たちは、「誰かを救おうとするならば、その救われる相手の気持ちをこそ尊重しなければならない」と訴えたいようだ。物語において、主人公の意志とは別枠でその気持ちが尊重されるようなキャラクター。それが彼らの語る「他者」の大ざっぱなイメージだ。こうした見方からすれば、たしかに『クオリア』は『シュタゲ』よりもテーマ的に優れている。というのも、『クオリア』のヒロインであるゆかりは、まゆりや紅莉栖とは異なり、「助かりたいとか助けて欲しいとか、そういう私の気持ちを無視して勝手に決めないで!」と主人公であるマナブに言い放つからだ。ここで『クオリア』の主人公は、はっきりと自分とは異なる主体性を持った「他者」に出会った、そして「これまでの俺の行動は所詮自己満足だったのか!」という気付きを得た物語は、「救われる側の人間の気持ちを無視した一方的な奉仕は所詮ナルシシズム(=エゴイズム?)にすぎない」という主張を孕むに至った、ということらしい。
 だが私はこうした批評にはあまり肯けないし、はっきり言って反感を抱く。『紫色のクオリア』が実際にどういった作品かはともかく、上のようなことを述べる批評家こそ「他者」を見ていない。では、ならば、「救われる側の人間の気持ち」をきちんと尊重し、それに従った上で妥当な方を救えばいいのだろうか?
 残念ながら、それは間違っている。仮にまゆりの気持ちを尊重して紅莉栖を生かしたり、逆に紅莉栖の気持ちを尊重してまゆりを生かしたりした場合のことを考えよう。その場合、一人の人間が死んだことの「責任」は誰が負っているのか。岡部ではない。なぜなら、彼は「他者の気持ちを尊重しただけ」だからだ。ある他者の言葉に従ってその他者を殺したとき、その「責任」は当たり前だが他者本人に帰せられる。ならば、岡部はたんにタイムリープのスイッチを押すだけの装置でしかない。なんの「責任」も負わず、物語における一個の主体性を持ちえないことになる。
 そう、「救われる相手の気持ちに従う」ことで失われるのは、まさに主人公自身が誰かにとって「他者」であるという事実だ。こうした批評家たちは、どういうわけか主人公ではなくヒロインばかりに「他者」であることを求めようとする。ちょうど、『エヴァ』を利用して「オタクは現実に帰れ、生身の女性と向き合え」という見当違いの説教をした者たちと、似たような過ちを犯しているのだ。実はそれこそが巧妙な責任転嫁なのだとも知らずに。
 もし『紫色のクオリア』が優れているとしたら、それはヒロインが「他者」として描かれたからだけではない。ヒロインが「助かりたいとか助けて欲しいとか、そういう私の気持ちを無視して勝手に決めないで!」と叫んだとき、主人公であるマナブもまた「勝手に決める」者、主体性を持った「他者」としてより深い輪郭を描くからだし、「勝手に決める」暴力なしには私たちが誰も救えないことを明らかにするからではないか。
 主人公もまた別の誰かにとっては「他者」である、ということを頭に入れれば、そもそも「救われる相手の気持ちに従う」ことがいかに難しいか明らかになる。『シュタゲ』のヒロインであるまゆりは岡部の幼馴染で、紅莉栖は岡部のことが好きなのだ。そんな彼女たちは、果たして岡部の前で偽らざる本当の気持ちを口にできるのだろうか。たとえ、本当は「自分は死にたくない」と思っていたとしても。
 つまり、私たちの言葉は目の前の「他者」に応じて、時と場合によって、いくらでもその形を変えうるということだ。「救われる相手の気持ちに従うべきだ」と言い放つ者は、あたかもその「気持ち」が簡単に確かめられるものだと思っているらしい。しかし、それは自分自身の主体性、他者性を都合よく無視して初めて手に入れられる視点であって、実際の状況では役に立たない。

 全く別の例を挙げてみたい。今まさにビルの屋上から飛び降りようとしている者が、私たちの目の前にいる。さて、この人を止めようとするとき、この人の「気持ち」に私たちは従うべきだろうか。「本当は死にたがっているのだから、そのまま死なせてやらないのはただの自己満足だ」とある人なら言うかもしれない。「もしこの人が生き延びたことでかえって苦しむとしたら、それを止めた私たちに責任は負えるのか」とも。これに対して、別の人は「いや、本当に死にたい人などいないのだから、助けるべきだ」と言うかもしれない。だが、実のところ私はそのどちらの考えにも賛成できない。「本当に死にたがっている人」は当然いるだろう。だが、にもかかわらず私たちはこの人の自殺を止めるべきではないか。その他の考え方は、この人の「気持ち」を自分の行動の原因にしているために、やはり卑怯な責任転嫁をしているだけだ。
 こうした問題は、『シュタゲ』と『クオリア』だけに留まらない。『魔法少女まどか☆マギカにも輪るピングドラムにもこのことは当てはまる。前者はともかく、後者には実際に「陽毬に真相を伏せている冠葉は、愛情の一方的な押しつけをしているだけだ」という批評が存在する。だがもし仮に中学生の妹が命の危険にさらされているとき、それを本人に明かすような兄の姿は私たちにどう映るだろう。「肉親に深刻な病状を伏せる」というごく一般的な場面に置き換えてみたとき、私は嘘と沈黙に耐える冠葉を「一方的な愛情を押しつける者」とは全く思わない。『まどマギ』にしても、暁美ほむら鹿目まどかに対して真相を伏せていることは、「一方的な愛情の押しつけ」では決してないだろう。二人とも、自分と相手のあいだに横たわる関係性、権力性のなかで思慮を重ねた上の選択をした。ここに『シュタゲ』の岡部を並べることは(あるいは『クオリア』のマナブを並べることも?)、なんら不自然ではない。
 それらを踏まえると、『シュタゲ』と比べて批評すべきなのは『クオリア』だけではなくバタフライ・エフェクトでもある。『エフェクト』は言わば、「結末で岡部と紅莉栖がすれ違ったとき、そのまま振り向かずに通り過ぎてしまうシュタゲ」だ。この作品では『シュタゲ』と異なり、タイムリープの能力は完全に主人公一人のものだ。ヒロインは助けられたことも、これまでの関係も全て忘れているために、彼に気付かない。そして、彼はそんなヒロインを微笑んで見送る。この『エフェクト』の締めくくりはとても潔く、美しい。対して、『シュタゲ』のタイムリープ能力は微弱ながら、キャラクター全てが持っている。紅莉栖は助けられたことは覚えていたために彼を呼び止め、これまでの関係は忘れているにも関わらず、記憶にない彼との対話を再現してしまう。そして岡部と紅莉栖の物語は再出発するのだ。
 この締めくくりは『エフェクト』と異なり、岡部のもとに少しだけ困難な状況を運びこむ。タイムマシンの失われた新しい世界で、二人は「ただの恋愛」をしていかなくてはならないからだ。今度の紅莉栖は岡部を嫌うかもしれない(その逆もある)し、記憶の共有にズレのある二人の関係は初めから上手くいかないかもしれない。だが、お互いに不器用である彼らは再会してしまうのだ。私は、岡部は自己満足ではなく、たんに責任から自分の意志でまゆりを助け、またのちに紅莉栖を助けたのだと解釈している。しかし『シュタゲ』の結末は、彼にその責任のなかで満たされることを許さず、次なる物語と責任へと投げ込んでしまう。これからも彼は作中でそうしたように、誰かを守るために別の誰かを切り捨てなければならず、またその人のために嘘と沈黙を強いられるだろう。そして、私たちが生きる世界は『エフェクト』の完結した物語ではなく、『シュタゲ』のそれなのだ。もし『クオリア』に「他者」が描かれているというのなら(もっとも、私はあまりそう思わないのだが)、『シュタゲ』にも同等かそれ以上の「他者」が、主人公のそれとして描かれていると見ていいはずだ。

 さて、こうした倫理観や「責任」観は具体的にどういったものなのか。次回はカント、デリダスピヴァク等も参照しつつ考えてみたい。