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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

あなたは「私は弱者だ」と言えるか? ――思想、震災、サブカルチャー――

 ここに、あなたから見て明らかなハラスメントを受けている人がいる。仮に、名前をAさんとしておこう。このAさんを悲惨な状況から救うために、Bさんという別の人が「Aさんが嫌がっているじゃないか、やめろよ」と声を挙げる。しかし、Aさんはそれに応えようとしない。そこへ、Cさんというもう一人の人が現れると「Aさんの気持ちを、そうやって勝手に代弁するのはよくないよ。だって、本当にイヤならAさんは自分でイヤだと言えるじゃないか。さあAさん、イヤならそうハッキリ言っていいよ?」と語りかける。これに対してAさんはしばらく口をつぐんでいたが、やがて「別にイヤじゃないですよ」と答えた。Aさんに明らかなハラスメントを行なっていたDさんは、自分がもう責められないことを知ってかホッとしたようだ。さて、そこで全てを見ていたあなたはなにを思うだろう?
 Eさんという人からすれば、Cさんはいくつかの間違いを犯している。一つ目は、「勝手に代弁するのはよくない」と言っておきながら、自身では「本当にイヤならAさんは自分でイヤだと言える」という別の代弁を行なっていることだ。Aさんが「本当にイヤでもイヤと言えない」かもしれないことが、無視されてしまっている。二つ目は、自分の言葉もまたAさんに影響を及ぼすこと、ハラスメントになりうることを考えていない点だ。CさんはBさんに反論している以上、ことを荒立てるのを望んでいないかもしれない。少なくとも、Aさんがそう受け取る可能性は充分にある。Cさんの口ぶりに、なにかこの場面を面倒くさがっている調子が含まれているとしたら、どうだろう。AさんはCさんに嫌われることを恐れ、イヤではないと答えたのかもしれない。そうでなくとも、そこにはハラスメントの加害者であるDさんがいるのだ。
 つまり、こういうことだ。誰かが誰かの代弁を勝手にすることが乱暴であるように、自ずと語らせようとすることもまた乱暴なのだ。なぜなら、私たちは語りたいことを語れない者であるかもしれないから、また私たちの言葉は常に目の前の他人や状況に影響されるから。それは、どちらがどちらよりもマシかという問題ではない。様々な悲惨な状況に応じて、常に正しいやり方は変わってくるとしか答えようはない。こうしたことがらについて、哲学や思想は常に考えてきた。具体的に名前を挙げるなら、Bはカール・マルクス、Cはジル・ドゥルーズミシェル・フーコー、Eはガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクだ。もちろん、彼らの議論の深さはたった一つの寓話では描ききれない。また、この描かれた議論自体がスピヴァクによる整理(『サバルタンは語ることができるか?』)で、零れ落ちたものも多い。だいいち、私はそこまでドゥルーズフーコーが酷かったとは流石に思わない。
 ただ、いったんこの寓話を押さえておくと問題が分かりやすいのも事実だ。代弁をすることの暴力性から逃れがたくあること。たとえば、フェミニズムに対して浴びせられる典型的な非難に「勝手に女の代弁なんてしないでほしい。私は女だが、今の日本に女性差別があるなんて思っていない!」というものがある。だがこの言葉は、「私」たった一人の気持ちに「女性」全てを代弁させているのだ。結局、現に差別を受けている女性の声は封じられたままになってしまう。また他には、「本当に鬱な人や自殺したい人は、自分から『鬱だ』『自殺したい』とは言わない」という迷信めいた言葉がある。これもまた勝手に鬱の人や自殺志願者を代弁しているために、「鬱だ」「自殺したい」というSOSの声が封じられてしまう。一方で、仮に「いや、彼らは自分から『鬱だ』『自殺したい』と訴える!」と逆のことを言っても同じだ。そのときは、「鬱だ」「自殺したい」というSOSの声を挙げられない人が無視されるのだから。
 私がこうした問題を強く感じたのは、3月11日に東日本で起きた震災のあとになってからだ。ツイッターを初めとする多くのSNSで飛び交っていた、震災をめぐる不謹慎な冗談。それに対して、「被災者の気持ちを考えろ!」と勝手に被災者の代弁をして非難する人たち。またそれに対して、「本当にイヤだったら、被災者は自分でイヤって言うと思うよ?」「私の親戚が被災したけど、『無事だった人は元気に笑って日本の経済を回してほしい』って言っていたよ?」と応じる別の人。このなかで、代弁することの暴力性から逃れられている者はいるだろうか。今こうしてこの文章を書いている私も含めて、誰も逃れられはしないのだ。大切なのは、自分なりにきちんと考えてしかるべき言動をとろうと努めること、そして、ある場面において私たちはこうした暴力を振るわざるをえないのだと知ることだけだ。
 一般的に「弱者」と呼ばれる人のなかには、初めから「私は弱者だ」と声を挙げることさえできない人がいる。彼らの気持ちを考えたり、尊重したりして行動しようとするとき、私たちはある不可能性に出会う。すなわち、相手から「合意」を求めたり「自由」に任せたりするようなやり方では駄目だということだ(なお、この二つによって他人を尊重しようとするのは、いわゆる俗流リベラリズムによく見られる考え方だ。またも「勝手に代弁するのではなく、自分から語らせよう」というわけだ)。なぜなら、彼らは「合意」に至るような自分の言葉を上手く発することができず、「自由」な言動がそもそもとれないかもしれないから。イジメ、DV、虐待、性的犯罪……あまりに残酷な暴力の被害者のなかには、自分を責めて言葉を失い、自分で自分を縛りつけるような者もいる。彼らと、どうやって「合意」や「自由」を取り付ければいいのか。私たちは、このやり方だけでは不充分なのだと認めるべきだろう。
 なにやら、陰鬱な非日常の状況ばかり並べていると言われるかもしれない(いや、性的犯罪は日常的に行なわれているのだが)。しかし、「合意」と「自由」だけでは決して正しい関係性を測れないような場面は、もっと根本的なものだ。それが告白と出産だ。告白をする前に、相手に「告白してもいいかどうか?」という合意を取ることは、それが既に一つの告白の形になってしまうために不可能だ。出産をする前に相手はそもそもこの世に生まれていないため、「産んでもいいかどうか?」を自由に選ばせることはできない。想いを告げることや子を産むことがほとんど全ての関係の始まりにある以上、私たちはまだ「合意」も「自由」もないところから「勝手に」出発しなければならない。この暴力性はもはや避けて通れないのだ。

 前回のエントリで、私は『シュタインズゲート』と『紫色のクオリア』について書いた。そこでは、「シュタゲよりクオリアの方が他者を描いているために、テーマ的には優れている」という他人の批評を少しばかり批判した(なお、一応その批評を紹介しておきたい。「ゼロ年代を締めくくる傑作!『Steins;Gateシュタインズゲート」だ。探せば他にも見つかる)。再びその話題に立ち帰ってみると、先の批評では「相手の気持ちを尊重しなければならない」ということが述べられている。だが、それがいかに不可能性に満ちたものであるかは既に述べた。しかるべき行動には、必ず「勝手に決める」乱暴さが含まれてしまうのだということ。先の批評に限らず、多くの「他者論」「弱者論」はまるで「勝手に決める」以外の決め方があるかのようにものごとを語りがちだ。そのためか、作中において主人公がヒロインから責められた/責められなかったという二項対立に拘ろうとする。すなわち、ヒロインに「自分から語らせる」というわけだ。だが、それこそが実は周到な責任逃れを招いているのではないか。つまり、自分から語らせることで本当は「相手の気持ち」を勝手に代弁しながらもその暴力性を隠し、おまけに自分の行動の「言い訳」にする、そんな卑劣さが無自覚に潜んでしまう。「私はあなたが本当に望んでいることを代わりにしただけで、そこには私の主体性も責任もありません。だって、あなたがそう言ったんですよね?」という風に(もちろん、私は別に先の批評を“槍玉に挙げている”わけではない。私を含めたくさんの人が、そうした傾向を持つのだ)。
 私が相手に応じて行動しようとするように、相手もまた私を一人の「他者」と見なして行動している。ゆえに、その言葉は常にすでに「私という他者」の影響を、さらには「状況という他者」の影響を受けて形を変えているのだ。改めて見直すと、このことを示すエピソードが当の『シュタインズゲート』に存在する。ある男性キャラクターは主人公(男性)を好いており、自分を生物学的な女性へ変えるためにタイムマシンを使う。のちにこの操作を取り消さなければならなくなるが、彼女=彼は「男に戻ったら、この気持ちを封印しなければならない」と思い悩むのだ(ここで「ホモフォビア描写だ」などと非難しても意味はない。それで彼女=彼の苦しみが消えるわけではないのだから)。主人公は彼女=彼が生物学的な男性に戻った元の世界で、「俺が好きか?」と問い質す。だが、彼女=彼は頬を赤らめつつも「尊敬しています」とごまかすだけだ。彼女=彼は、今後「本当の気持ち」を打ち明けられるのだろうか? 自分の「本当のセクシュアリティ」を仲間たちに明かすことができるのだろうか? 残念ながら、その答えは(ファンディスクはともかく)作品本編のなかにも、この世界のなかにも確固たる形ではありえないのだ。

 次回で最後となるが、そこでは「嘘をつくこと、沈黙することは本当に倫理として許されないのか?」を考えたい。