鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

『ブラック・スワン』はAKBだ。

 映画『ブラック・スワンを観ながら、私は目の前のバレリーナの物語をそのままバレリーナの物語とは受け取っていなかった。「これは要するに、AKB48のことではないか!」と感じていた。もちろん、AKB48の秋元康氏がトマスのようなことをしていると言いたいわけではない。また、AKB48で「性的搾取」が行なわれているかどうかについては、いったん判断を保留しよう。そうではなく、ひとつの図式や構造の問題として『ブラック・スワン』はAKB48をめぐる言説への批評になっているのだ。

 AKB48をめぐる言説とは主に、CNNが秋元康氏へのインタビューで行なった追及から始まったものだ。もっとも、それ以前からAKB48の「性的搾取」を問題にしている者は多い。ただ、それまで日本のメディアが大っぴらに批判してこなかったこともまた事実だ。CNNの記者は問う、「日本社会には現在、若い女の子たちの性的な搾取が多いとの声もあります。あなたが手がけたミュージックビデオにも、制服やビキニ、セクシーな下着に身を包んだ女の子たちが、お互いの顔をなめたり、キスしたり、お風呂に入ったりといった表現があります。ご自身も、この問題に関与していると思いますか?」。もちろん、これに対して秋元氏は「思わないですね」と否定している。だが、その理由は「それはアートですから」といういささか怪しいものだ。アートだからといって、全てが許されるわけではない。そのことは、カオスラウンジが起こした数々の騒動によってすでに明らかになっている。であれば、もっと別の理由を秋元氏は述べるべきだったかもしれない。この問題について、「(性的搾取かどうか)それをどう感じるかは個々の判断だと思いますね」と退けるのは簡単ではない。というのも、ある言動が「善」「悪」どちらに当たるかは「個々の判断」ではありえないからだ。
 CNNの追及をきっかけに、ツイッターをはじめとするSNSにおいてAKB48をめぐる議論がやや活発になった時期がある。追及に賛同する者もいれば、反論を述べる者もいた。私はどちらの立場にも与することはできなかったが、より考えていきたいのは賛同意見の方なため、先に反論から見ていこう。たとえば「AKBの子たちは好きでやっているからいいのではないか?」という反論がある。なるほど、自由選択と合意があったから大丈夫というわけだ。だが、児童ポルノの問題でもっとも困難なのがその「自由選択」と「合意」だろう。記者がその存在を指摘するような「13、14歳の少女」に、果たして本当に自由選択ができるのか。合意を取り結ぶことはできるのか。私は決して「だからAKB48には性的搾取がある」と言いたいわけではない。そうではなく、この問題を「一蹴」するような明快な論理はないのだということだ。このことについては以前「果たして『他者』はどこにいるのか? ――『シュタゲ』と『クオリア』」から続く一連の記事で書いたことなので、もう繰り返さない。
 では一方の賛同者たちは、このような反論にどのように応えたのか。たとえば「彼女たちは好きでやっているからいい、というのは誤りだ」という再反論がある。要するに、彼女たちがたとえ自由に問題のミュージックビデオに出ていたとしても、そのミュージックビデオの内容は道徳的に問題があり、それは「女性たち」という共同体の尊厳を貶めているのではないか、というわけだ。それは「女にはこういうことをしても嫌がられない」という価値観を広く普及することに繋がるだろうから。この場合、性的搾取の被害者はAKB48の少女たちというよりは、日本人の女性全体ということになる。反論者たちのなかに「自由」と「合意」を持ち出す者がいたのに対し、賛同者のなかには「道徳」と「共同体」を持ち出す者がいる。さながら俗流リベラリズムと俗流コミュニタリアニズムの二項対立だ。が、私は反論者へ肯くことができないように、賛同者へも肯くことはできなかった。なるほど、たしかにAKB48のミュージックビデオには性をめぐる規範道徳を脅かすところがあるだろう。それを問題視したい人たちがいるのもよく分かる。しかし、では、AKB48の少女たちはどうすればいいのか? あるいは「この私たち」は? 彼らは全ての女性に、「お道徳」にびくびく怯えながら「世間様」のために慎ましく生きろ、とでも言いたいのだろうか?

 まさにこの二律背反の問題が、『ブラック・スワン』にはストレートな形で描き込まれている。優等生のニナはホワイト・スワンを踊ることはできるが、ブラック・スワンを演じることができない。だが『白鳥の湖』の主役たるスワン・クイーンは、この一人二役をこなさなければならないのだ。監督のトマスはニナに欲望を解放するように言い、自身も様々なセクシュアルハラスメントを繰り返す。トマスは明らかに問題の多い人物で、すでにベスというバレリーナを破滅に追い込んでいる。クライマックスでニナは欲望を解放しブラック・スワンを演じ切るが、実のところ利用されているだけだ。しかし、ではトマスを離れて欲望もそのままに生きていけばいいのか。その場合、ニナを苦しめるのは元バレリーナの母エリカだ。挫折した自身の夢を娘に託すエリカは、ニナが自分に背くことを許さない。つまり、ニナはその欲望を解放しようと抑圧しようと、必ず何者かに利用されるだけの運命にあるのだ。前者の場合はトマスに、後者の場合はエリカに。この二律背反は、劇中劇のブラック・スワンとホワイト・スワンの二項対立にも反映されている。そして先ほどの、AKB48をめぐる言説の問題を言い当ててもいるわけだ。
 私は、彼女たちには「自由」と「合意」があるからそれは性的搾取ではありえない、と呑気に言うことはできない。だが、たとえ彼女たちが自由と合意に基づいていたとしてもそれは「道徳的に」「共同体的に」許されない、と傲慢に言うこともできない。前者はトマス的な人間にとって都合のいい欺瞞、後者はエリカ的な人間にとって都合のいい欺瞞にすぎないからだ。では、彼女たちはどうすればいいのか、そして私たちもまたどう生きればいいのか? その問いに答えられなかったために、私はAKB48をめぐる言葉を今まで発することはできなかった。
 以上のような視点から『ブラック・スワン』を見ると、実は作中にニナが救われる道があることが分かる。それが新人バレリーナのリリーだ。彼女は自由奔放に生き、トマスを正しく軽蔑し、ニナに友情を感じている。彼女に煙草を吸わせ、酒を薦め、ドラッグを薦め、というあたりは通俗的で興ざめだが、はっきりとニナを新たな生き方へ導こうとしている。トマスに従うかエリカに従うかという二項対立の他に、ベスのようになるかリリーのようになるかという二項対立があるのだ。欲望を解放してトマスに従えば、やがてベスのように破滅させられるだろう。肝心なのは、解放した欲望を他人に従わせるのではなく自分自身に従わせることだ。だが、スリラー映画の『ブラック・スワン』は意図的にリリーによる救済を封じていく。錯乱したニナはリリーが自分を欺いているのだと信じ、無我夢中で彼女を鏡の破片で刺し殺してしまう。そのことによってブラック・スワン(ベス的な服従主体)になるのだが、実はニナはこのときリリーを刺したのではなく、自分を刺していたのだ。結末、ホワイト・スワンの絶命を演じるニナは同じく絶命する。作中の錯乱描写が鏡を中心的に使われたことも手伝って、刺し込まれた鏡の破片は物語を「ニナの自意識」の問題に閉じ込めて矮小化してしまうのだ。
 この悲劇は、劇中劇『白鳥の湖』の結末と重なり合う。悪魔=トマス、王子=リリーという風に。また監督のトマスと観客席のエリカという構図は、この映画自体への自己言及にもなっているだろう。監督がつくり観客が受け取るスクリーンのなかで、女優はただの被写体として服従させられていると言える。このように見事に図式化された映画を観ながら、私はしかし、だからこそより深く問題を追求すべきだったと感じてしまった。この結末は、監督=トマスと観客=エリカを中途半端に甘やかしている。その意味に限るなら、『ブラック・スワン』は残念ながら成功しているとは言い難い。失敗とはつまり、そこに横たわる実際的な問題を知っていながら、全体の完成度のためにあえて突っ込むことをしなかったということだ。失敗であることと、つまらないこととは別の問題だ。つまらない作品には成功も失敗もない。似た題材を扱った作品と比べるなら、今敏パーフェクト・ブルー』の方が優れている(『パーフェクト・ブルー』の方が時期的にもずっと早いのだが)。スリラーないしサスペンス映画として全然スリルやサスペンスを感じないとか、映像として美しいと感じる場面がほとんどないとか、人間ドラマとしてはそれこそ図式的に過ぎて踏み込みが浅いとか、そういった批判は仮にあったとしても、ひとまず措こう。私がなによりも残念だと思ったのは、実際の社会で「トマスやエリカのような人間」がそうであるように、彼らへの視線にあまりに緊張感が欠けていたということだ。