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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

「ポスト・エヴァ」など存在しない。――『エヴァ』試論2――

 したがって、『エヴァ』はレイとアスカの二項対立ではなく、レイとアスカとミサトとカヲルの四項対立で考えるべきである。「セカイ系」や「ポスト・エヴァ」といった枠組みさえ外せば、そうしない理由はどこにもない。
 そもそも、レイとアスカが本当に対立しているのかさえ怪しい。『エヴァ』を批評する者たちは、レイに「虚構」「母性」「アニメ的女性」といった属性を読み込み、アスカには「現実」「異性」「生身の女性」といった属性を読み込むと、シンジがアスカを選んだかのような結末から「現実に帰れ」「他者と向き合え」というメッセージを思い描く。これが間違っていることは、既に述べた。すなわち、シンジはアスカに「帰って」いるのではなく「逃げて」いるのであり、「生身の女性」を「他者」「現実」に結びつけることはできないのである。だいいち、「生身の女性」などといった言葉はほとんど語義矛盾と言っていい。「生身の女性」と言う時点で、その発話者はアスカを「女性」という枠組みに閉じ込めている。
 しかし、レイやアスカにそうした属性を読み込むこと自体にも、間違いがないだろうか。本当にアスカは物語において「異性」「生身の女性」として振る舞っているのか。答えは、否、である。それは結末において、アスカが体に「包帯」を巻いている描写から明らかにされる。エヴァンゲリオンの損傷がパイロットに影響しないことを知っている視聴者なら、ここでアスカが怪我を負っていること自体おかしいことに気付くだろう。もし仮になんらかの異常事態によって傷付いたとしても、いったい誰が包帯を巻けるのか。いや、そうではなく、人類補完計画によってLCLと化した体は、自分がイメージしたように元に戻るのではなかったか。つまりアスカは、自己のイメージの一つとして「包帯」を選んだのではないか。このことは、作中の「包帯」が全く別の記号であることを示している。それは二者択一のもう一方、レイのイメージと分かちがたく結びつく。
 結末のシーンで、アスカがシンジに「気持ち悪い」という言葉を放ったことは、『エヴァ』批評において常に取り沙汰されてきた。だが、この台詞はショッキングなものでは決してない。馬乗りに首を絞められ、しかも泣き出された場合、そう思わない方が不自然ではないか。むしろよりショッキングなのは、アスカが「気持ち悪い」と言う前にシンジの頬を撫でたことにある。アスカに「異性」「生身の女性」といった属性を読み込みたい者からすれば、最も行なうべきではない行為をアスカはしている。自分を傷付ける者を受け入れ、慈しむこと。先ほどの「包帯」という記号を見るに、もはやこのアスカには「レイ的なもの」が含まれている。すなわち、「母性」「アニメ的女性」「虚構」といった属性が。二者択一は既に打ち棄てられており、シンジはどちらに「帰って」も「逃げて」も、結局のところ同じ選択をしてしまうよう定められている。
 よって、アスカからの仕打ちを「本当に痛い」ものとして捉え、そこから「セカイ系」の「安全に痛いパフォーマンス」を批判することは間違っている。「ポスト・エヴァ」史観など初めから存在しない。「本当に痛い」ものは、少なくとも『エヴァ』からは見出せないのである。同様に、『エヴァ』を「母性のディストピア」といった問題から逃れたものとして考えることもできない。アスカを選ぼうとレイを選ぼうと、シンジは常にすでに「母性」のなかにいる。したがって「レイプ・ファンタジー」などといったものは一度たりとも解消されていない。それらの概念を全否定するわけではない。だが、「他者」「現実」といったものが『エヴァ』に見出せないこともまた事実である。『エヴァ』が示してくれるものは逆に、「現実/虚構」といった二項対立そのものの解消である。それはレイ的なものを含むアスカによって、「生身の女性/アニメ的女性」といった二項対立を解消することによって描かれる。
 ごく個人的なことを書くなら、私は「生身の女性/アニメ的女性」といった二項対立がなくなってくれることを望んでいる。それが語義矛盾なのは先に述べたが、さらに言えば、その二項対立が男性の自意識ゲームにばかり用いられることに飽き飽きしている。仮にオタク(の男性)がアニメを見て萌えキャラを消費しようが、全く構わないのではないか。そこで「レイプ・ファンタジー」「母性のディストピア」「安全に痛いパフォーマンス」が行なわれようが、なんの興味もない。要するに、そこには程度や節度という良識の問題しかないのだから。逆に、「生身の女性」との実際の恋愛を「萌えキャラ消費」より上に置くような考え方こそ、巧妙にひとを「女性」という枠組みに閉じ込め、「現実であること」「他者であること」から遠ざけている。なぜ、彼らは「男性/女性」という根本的な虚構を、二項対立を批判しないのか?

 だが、レイとアスカにミサトとカヲルを加え、四項対立のなかで『エヴァ』を読もうとしたとき、もはや以上のような発想(レイとアスカの二項対立とその解消)に頼る必要さえなくなるだろう。
 結論を先に書くなら、アスカと対になるのはカヲルであり、レイと対になるのはミサトである。物語がこれら二つの二項対立を同時に描くことで、多くの『エヴァ』批評は、あたかもレイとアスカが対立した記号であるように見なしてしまった。だが既に述べた通り、アスカとレイに書き込まれた「異性」「母性」という記号は、シンジにとってもともと対立しえない。例の「母性のディストピア」に外部が示されないなら、それは男性にとって「異性」であると同時に、少なからず「母性」をも用いる存在だとさえ言えよう。いや、そうではなく、もしアスカに「異性」としての記号を読み込むならば、対になるのは「同性」であるカヲルでなければならない。このことは、エヴァンゲリオン二号機に乗るのがアスカからカヲルへ移り変わることで表される。アスカが物語からいったん退場するとともに、その搭乗席を埋め合わせるかのごとくカヲルが現れるのである。
 では、レイとミサトが対立するのはどういった構造においてか。両者は、ともにシンジのオイディプスコンプレックスにおける「母」の位置を占めようとする。レイは碇ユイのクローンとして、ゲンドウ(父)‐レイ(母)‐シンジ(子)のオイディプスを形づくる。他方ミサトは、リョウジ(父)‐ミサト(母)‐シンジ(子)のオイディプスを形づくる。これら二つもまた、アスカとカヲルが物語で入れ替わったように交代する。レイが碇ユイのクローンであることが明かされるのは、リョウジが死んだのちのことであり、そのリョウジが登場するのは、シンジが第六話においてゲンドウと演出上の同一化を果たし、レイを助けたあとのことである。二つのオイディプスは、言わば片方が弱まればもう片方がそれを補うように強化されていく。結末でシンジが行なっているのは、どちらのオイディプスを選ぶか、という選択である。
 両者を隔てるのは、レイが直接に近親相姦タブーを意味するのに対し、ミサトがそうではないことであるが、むろんそれだけに留まらない。ミサトの「ペンダント」がシンジに結末の選択を促したことは、アスカの「包帯」と同じく、一つの記号として読める。「ペンダント」はミサトが死に際の「父」から譲り受けたものであり、これは旧劇場版のミサトが、リョウジの意志を継ぐかのような台詞を残していることと奇妙に繋がる。ミサトは「母」でありながら、「リョウジ的、父的」なものを既に含んでいる。シンジがミサトの「ペンダント」に従うのは、ミサトがレイよりも「母性のディストピア」の核からわずかに離れている点、“多少マシな母”だからではないか。ということは、ここで描かれるのもやはり程度や節度という良識の問題でしかないのである。彼が選ぶのがカヲルではなくアスカだろうと、レイではなくミサトだろうと、それは大した決断でも選択でもない。オイディプスの図式に則って見れば、『エヴァ』は同性愛(のタブー)と異性愛の二項対立において後者を選び、近親相姦(のタブー)と“多少マシな母”の二項対立において後者を選んだ、たんなる保守的で穏当な物語ではないか。
 なるほど、結末で「気持ち悪い」と言いつつシンジの頬を撫でるアスカは“多少マシな母”の仲間入りをしている。さらに、『ヱヴァ』「破」ではこうした二項対立の解消が、「アスカの早々とした退場」「リョウジの役割を奪うマリ」から導かれた「ゲンドウがシンジに与えた音楽プレイヤーを握りしめるレイ」という図式によって、より純粋な形で提供されている。『エヴァ』から「現実に帰れ」「他者と向き合え」といったメッセージを受け取りたがる批評家たちは、『ヱヴァ』に肩すかしをくらい、「ヱヴァはウェルメイドで、新しいものはなにもない」とでも言いたくなるだろう。だが、もともと『エヴァ』は『ヱヴァ』とそれほど変わらない。ただ、監督である庵野秀明のもっともらしいメッセージや作品の破綻具合が、いかにも「文学的」な深みを見せかけていただけのことではないか。ここまで物語を追っても、私には『エヴァ』(の批評)が、フロイト的かつ江藤淳的な、「ヘテロセクシュアルの男性」を中心にしたものにばかり感じられる。
 「ポスト・エヴァ」史観とはつまるところそれ自体が「セカイ系」である、という以前の結論に再び立ち返らなければならないだろう。私たちが「セカイ系」の問題を解消したいのなら、その「先(=決断主義その他諸々)」に進もうとするのではなく、「ポスト・エヴァ」史観に従った古い『エヴァ』批評そのものを捨て去らなければならない。私は、『エヴァ』や『ヱヴァ』をつまらないと言いたいのではない。そこから汲み取るべきものが「現実」「他者」などではなく、「生身の女性(現実)/アニメ的女性(虚構)」という二項対立の解消にある、と言いたいだけである。しかしながら、カヲルとミサトを加えた四項対立を考えたとき、『エヴァ』を貫くのがたんなる保守的で穏当な物語であることも、また疑いえない。このまま『エヴァ』(の批評)に留まる限り、たとえば「男性/女性」という根本的な二項対立を解消することができないのだから。