鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

スピヴァク『デリダ論』について ――現代フェミニズムの地平(1)

 ガヤトリ・C・スピヴァク(1942~)はジャック・デリダ『グラマトロジーについて』(1967)の英訳を手がけ、そこに長大な序文(1976)を記した。彼女はデリダの略歴を紹介し終えるや否や、ヘーゲルデリダの関係から「序文」一般の問題を説いてみせる。さらにはハイデガーレヴィ=ストロースニーチェフロイトフッサールフーコーそしてラカンなどを参照し、彼を詳細に論じるのだ。そうした「デリダ論」を読むことで、フェミニストとしてのスピヴァクデリダからなにを受け取ったのか明瞭に察することができる。

 

 まずスピヴァクハイデガーを片手に注目するのは、デリダの「抹消の下に置く」身振りである(具体的には、こんな風に書くことである)。それは言わば、「唯一利用可能な言語を使用しながら、その前提には同意しないという戦略」(p32)だ。そしてその戦略は、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ(器用仕事)」という身振りと似通いつつも、微妙に異なっている。レヴィ=ストロースが自身のブリコラージュと他の技術工学を対立させ特権化するのに対し、デリダはそうした対立を解体しつつ保存してしまうからだ。彼は唯一利用可能な「唯一利用可能な言語を使用しながら、その前提には同意しない」戦略を使用しながら、その前提には同意しないのである。

 デリダの「抹消の下に置く」という態度は、ニーチェの「認識/忘却」の実践に等しいものである。彼は全てが解釈されたものに過ぎないと「認識」しつつ、それを「忘却」する。「一貫性のなさを維持し、二つの極を奇妙にも相互依存的にする」(p68)このトリックは、「抹消すると同時に読めるように残しておく」(p69)デリダの身振りそのものだ。そこに注意するかどうかが、デリダニーチェ論とハイデガーニーチェ論を大きく隔てていると言えよう。ニーチェのテクストを一貫させようと解釈したハイデガーを批判する形で、デリダニーチェの非一貫性を維持している。そして、こうした「抹消の下に置く」スタイルに巻き込まれ引き裂かれたのがフロイトである。彼の精神分析はテクストの非一貫性を保ちながら解読する技法として採用されながら、それ自体、一貫した体系として批判される必要があるからだ――ハイデガーが時間概念に四苦八苦しているのを横目で通り過ぎるために、デリダは「時間は心的機構の非連続な知覚だというフロイトの考え」(p122)を採用しているにも関わらず、である。これこそが、初期のフッサール研究の頃から続く「唯一利用可能な言語を使用しながら、その前提に同意しない」デリダの方法なのだ。

 以上のことから言えるのは、デリダは「構造主義」の後(poste)の思想家だということである。というのも、構造主義者(と見なされた者たち)は「抹消の下に置く」ことを考えていないからだ。たとえば、ミシェル・フーコーは「考古学」という「唯一利用可能な言語を使用」しながら、その前提を否認できない。ジャック・ラカンもまた、フロイト派精神分析という「唯一利用可能な言語を使用」しながら、やはりその前提を否認できないのだ(それゆえフーコーやラカンたち自身の危惧とは無関係に、彼らの思想はデリダより遥かに一貫した体系を持つ――要するに分かりやすいということだが)。簡単に言えば、フーコーは自身の考古学を考古学の対象にできないし、ラカンは自身の精神分析を精神分析の対象にできない。

 他方でデリダは、自身の脱構築脱構築するために「抹消の下に置く」。スピヴァクデリダから受け取った最大のものは、まさにこうした態度であるように思われる。もちろんフェミニストとしての彼女は、デリダの「男根=論理中心主義」に対する批判や「処女膜」という隠喩に惹きつけられただろう。しかしそれ以上に重要なのは、彼女がデリダに関して「フェミニスト的」という語を「抹消の下に置いた」ことである(p150)。スピヴァクは「フェミニスト的」という唯一利用可能な言語を使用したうえで、その前提に同意しないのだ。それは我々に、彼女が「フェミニズム」とどのような距離を保っているのかを教えてくれる。抹消の下に置かれたフェミニズム……それが我々の出発点である。

 

(訳は田尻芳樹訳『デリダ論』平凡社ライブラリー、2005に依った)