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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

出来事の超越論性、欲望の分裂分析 ――國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』感想

 國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』は、近年注目されている〈政治的ドゥルーズ〉の問題に真正面から答える書物だ。ドゥルーズの哲学には〈政治性〉があるのか、あるとすればそれはどのようなものなのか――この疑問を明らかにするため、國分はドゥルーズ哲学の方法、原理、実践を精緻に読み解き、そこから導き出された転回と〈政治性〉を見事に描きつくしている。

 

 國分はドゥルーズ哲学の方法を「自由間接話法的ヴィジョン」と呼んでいる。スピノザニーチェを称揚するドゥルーズは、哲学の課題を「概念conceptの創造」に求めていた。概念を創造するには新しい内在平面(=思考のイメージ)を発見しなければならず、新しい平面を発見するには既存の平面を批判しなければならない。だから彼にとって哲学研究の課題は、論述対象である哲学者の思考が定位していた内在平面(=思考のイメージ)を描き出すこと、すなわち哲学者が語ったことの前提にまで遡ることだったのである。論じる側と論じられる側の区別を不可能にする自由間接話法を導入したのは、そのためだったと言ってよい。

 そのようなドゥルーズ哲学の原理を、國分は「超越論的経験論」と形容している。それは一言で言えば、経験論に立脚しつつ超越論的な原理の発生を問うことである(超越論的な原理とは、ここでは「主体subject」と解しておいて差支えない)。やがて彼は「出来事」という名の特異性だけが超越論的な要素であり、それが超越論的な原理を発生させる契機であるとの考えに至った。あたかも、無人島においては誰かしら他者と出会うことによって初めて私がひとりの人間になるように、精神はなんらかの出来事と遭遇することで初めてひとつの主体に纏め上げられるのである。これは哲学史的には、カントの超越論哲学が見落とした発生の問いを、ヒュームの経験論哲学に求めたことを意味する。

 だがこのようなドゥルーズ哲学は、実践的な「思考」や「主体性」に関してはいくらかの欠陥を抱えてしまう。彼にとって超越論性が出来事に発生させられるものであったように、実践的な思考はシーニュ(しるし)によって強制されるものでしかない。同様に実践的な主体性は、ベルクソンが言うところの「注意深い再認」の失敗によって現れる「物質に付け加わる主体性」に過ぎないのである。もちろんドゥルーズは、シーニュを読み取る方法の習得と教育が重要であると説いてはいる。とはいえ強制されなければ思考を始められない、失敗しなければ主体性を立ち上げられない、そんな哲学に〈政治性〉を見出すことは難しい。

 國分功一郎は、「構造から機械へ」とも呼ぶべきドゥルーズ哲学の転回をここに見出している。具体的には、ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』における「分裂分析」の創造によって、彼は自らの実践的〈非政治性〉を乗り越えたのである。

 ドゥルーズ=ガタリの分裂分析は無意識について「微細表象モデル」を採用し、局所的な複数の欲望を社会的領野から説明しようとする。それはフロイト=ラカンの精神分析が無意識について「セリーモデル」を採用し、大域的な単数のエスを原抑圧と去勢から説明していたのとは対照的なものである。60年代のフランスにおいて構造主義は大きな潮流となっており、ドゥルーズもラカンも主体を「構造」によって説明する図式から抜けられなかった。他方でガタリは「構造」を超える「機械」のアイデアを直感的に持っていたが、それを概念化できずにいた。ガタリという他者との出会いは、哲学史的にはフロイト=ラカンの精神分析をマルクスの政治経済学に接合するための、個人史的にはドゥルーズ構造主義の後posteへ向かうための絶好の「出来事」だったのである。

 

 現在の西洋哲学はきわめて〈政治的〉な論者が――ネグリ=ハートやジジェク、バディウなどが――活躍する時代のさなかにある。そのなかでドゥルーズは、未だに評価が大きく揺らいでいる哲学者だと言うべきである。彼の哲学に〈政治性〉はあるのか、あるとすればそれはどのようなものなのか。國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』はこの問いに向き合い、さらにドゥルーズ=ガタリの著作の理論的位置づけを定めてみせた。全てを「欲望」のレベルで考える彼らの視点は、全てを「権力」のレベルで考えるフーコーの視点と絡み合い更に洗練されていくだろう。その行く末については、ぜひ自分の目で確かめてほしい。