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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

愛せない男たちの肖像 ――石原慎太郎論(「完全な遊戯」について)

0 ――遊戯の位置

 石原慎太郎(1932~)は『太陽の季節』(新潮社、1956)で文学界新人賞芥川龍之介賞を受賞してから、『北壁』(三笠書房、1956)、『狂った果実』(新潮社、1956)、『日蝕の夏』(三笠書房、1956)、『理由なき復讐』(三笠書房、1956)、『若い獣』(新潮社、1957)などを次々と発表してきた。本稿で扱う「完全な遊戯」は『新潮』1957年10月号に掲載され、翌年1958年3月に単行本化された。2003年の文庫版では、他の「若い獣」「乾いた花」「鱶女」「ファンキー・ジャンプ」「狂った果実」といった短編を抑えて表題作に選ばれている。

 しかし、石原慎太郎「完全な遊戯」は決して文壇における評価が高かったわけではなかった。当時の文芸時評を紐解いてみれば、むしろ佐古純一郎や平野謙らによる強い否定を受けていたのである。

「もういいかげんにしたまえと叫びたいほどのものである。君たちはこういう小説が書けることに若さの特権を誇っているのかもしれないが、いったい人間というものを少しでも考えてみたことがあるのか。石原はどこかで自分の文学は人間復活の可能性の探求だとうそぶいていたが、作家としての良心を失っていないのなら、少しは自分の言葉に責任を持つがいいのだ」(佐古純一郎「文芸時評」『産経新聞』1957、9、14)

「『完全な遊戯』、この題名を思いついたとき、作者はニヤリとほくそえんだかもしれぬ。(中略)作者はすでに昨日の流行でしかないドライ派の青年どもをラッしきたって、残酷を残酷とも思わぬ彼らの完全に無目的な行動を描破したつもりらしい。私はこういう作品をマス・コミのセンセーショナリズムに毒された感覚の鈍磨以外のなにものでもない、と思う。美的節度などという問題はとうに踏みこえている。私はこの作者の『処刑の部屋』や『北壁』には感銘したものだが、あの無目的な情熱につかれた一種充実した美しさは、ここでは完全にすりへらされ、センセーショナリズムのワナに落ち込んだ作者の身ぶりだけがのこっているにすぎない」(平野謙文芸時評」『新潮』1957、10)

 重要なのは、こうした悪評にもかかわらず「完全な遊戯」が作家自身から優遇されてきたことである。たとえば、文壇から比較的高く評価された「処刑の部屋」(『新潮』1956、3)が単行本化さえされなかったことを考えれば、仮に出版社の都合などがあったとしても、幾度も表題作に選ばれている「完全な遊戯」が特権的な立場にあることが容易に了解できよう。おそらく石原本人は、周囲の否定的評価に反して「完全な遊戯」が優れた文学性を持つ作品であると考えており、そのことが本作を厚遇する結果に繋がっているのではないだろうか。

 では、その文学性とはどのようなものか。本稿は「狂気/理性」「無目的/目的」などを枠組に、この問いを推し進めるものである。

 

1 ――女について

 最初に「完全な遊戯」の登場人物を整理しておこう。精神疾患を抱え、精神病院から抜け出してきたらしい「女」と、そんな女を拉致・監禁しながら輪姦を繰り返し、売春宿へ放り出したかと思えば、最後には殺害してしまう「礼次」「武井」といった青年ら、そして彼らが途中から呼び寄せる「高木」「達」といった共犯者たち、さらに彼らが呼び寄せる三人の男たちである。本稿で注目したいのは、礼次と他の男たちとの間では女との関係が大きく異なることであり、それによって礼次が、明らかに武井とは別の恐れと憤りを感じていることである。

 まず確認すべきは、女が何をしたいのかが文中から全く読み取れないことである。一見、彼女は「藤沢の駅までいって、汽車で」「横浜」まで行こうとしており、そのたびにバスや汽車が来ないため「帰れない」「こまった」状況に陥っているらしい。そしてたしかに、女は「私帰るわ、帰して頂だい」とさえ語っているのだ。彼女は「大船の鎌倉病院(辺りでは著名な精神病院)」に入院していたが、「もう直った」「先生たちはもう、みんな直ったと言っていた」らしく、横浜へ帰るつもりだったようである。

 しかし、女が本当に横浜へ帰ろうとしているのかは分からず、そのことは武井や礼次によって正確に疑われている(「時間表が出てねえ訳あないんだがなあ。いつまでああやって立ってやがるつもりだろう」「あんな時間まであすこで何をしてたんだい?」「本当に横浜へ帰るつもりだったのか」)。おまけに途中から、女は「もう、帰らない、帰りたくないの」「でも、私、横浜には帰らない」とも語っているのだ。こうした曖昧さにおいては、彼女の「違う! もう治ったわ!」という言葉も素直に信用するわけにはいかない(「先刻もそうだったぜ、何だかこの女、普通じゃねえみてえだな」「ちえ、やっぱり一寸コレだったのか」「言っとくがな、その女てえな少しばかりここが変らしいんだ」「この前まで病院にいたんだと自分で言ってたぜ、けどもう直ったとよ、でも一寸な」)。

 女に明確な目的や明晰な理性があるのか、石原慎太郎は意図的に曖昧にしているかのようである(「「横浜には、家があるの」「え」「家がさ」「ええ、横浜に行こうとしていたのよ」答えにならぬ曖昧な女の言い方だった」)。事実「完全な遊戯」では、女の言葉が時折意識的に伏せられており、そのことが彼女の人間像を不明瞭かつ不完全なものにしている(「女は何か訳のわからぬことを叫んだ」「先刻から女は低い声で何か聞きとれぬことを言いながらじっとしたきりだった」「女が低く、うめくように何か言った」「女が何か叫んだ後」「そして時折訳のわからぬことを小さく叫びながら気を失った」「女が何か叫んで飛びすさった」「女は頭を振り何やら叫ぶと」「女が鼻声で何か言った」)。

 

2 ――武井たちについて

 以上のような女を、武井たち男は自分たちに都合よく「狂気」「無目的」として補完してしまう(「どんな風に変なんだ」「なに、常人と変わりゃしねえよ、唯、何をされても馬鹿に温和しいというだけさ」「好都合じゃねえか」)。彼らは、女の曖昧な態度を「色気違い」として解釈しているのだ(「大した女だぜこいつぁ、腰を使い出しやがった」「手強いぜ奴あ、あっちの方でもなかなか、仕舞にあの女凄い声を挙げやがった」「色気違いじゃねえのか、あの分じゃ」「野郎、静かにするように、股ぐらにほうきでも突っ込んどいてやろうか。大方それならこ奴あ嬉しそうにじっとしてるぜ」「悪? よせやい! こいつあ何より楽しい遊びだぜ、女にだって、なあおい」「そ奴あ、よく、最中に気が遠くなるからな。癖なんだ、心配することあねえ」「こいつあ馬鹿みてえに好きだぜ」「でも大した女だぜ。いざとなりゃまだやるぜこ奴あ」「いかに合意があるとは言えな」「話あつくと思うな。奴なら大した売れっ子になるぜ」)。

 彼らの解釈において、女の理性と目的意識は完全に忘却されていると言ってよい。彼らは自身の「遊戯」を「合意」のものとして正当化すべく、女に狂気の属性を当て嵌め、結果として横浜の家へ帰るという女の目的を否定し切ってしまう。そこでは彼や他の男たちが女を不気味に思うのは、あくまで彼女の狂気に対してだろう(「おい、この女どうも気味が悪いぜ。それに結構、俺たちの方が遊ばれているんじゃないだろうなあ」「朋輩たちは事情を知ってか気味悪がって近くに寄りつかないでいる」)。したがって武井が女に暴力を振るうのは、むしろ女が完全に狂気的ではなくなったとき、すなわち彼女が輪姦や拉致監禁に対して真っ当に抵抗しすぎたときなのだ(「「この野郎!」言って頭を押さえつけるその掌の下で」「「黙らねえか、良い加減に!」シートの背から殆ど全身を逆さにのり出した武井が、叫びながら女の眼の上から力一杯殴りつけた」「また武井が殴りつけるばしっという鈍い音が聞こえてくる」)。

 おそらく、こうした構図を受けて三島由紀夫は次のように述べているのだろう。彼は本作へ集中した文壇からの悪評に驚きつつ、

「感情の皆無がこの作品の機械のやうな正しい呼吸と韻律を成してゐる。相手は狂女であり、こちらには無頼の青年たちがゐる。一瞬の詠嘆の暇もなしに、行為は出会ひから殺人まで進む。しかも人物の間には、狂女のそこはかとない恋情を除いては、感情の交流は少しもないのである。(略)狂女は純粋な肉になり、かうした暴行にお誂へ向きの存在になり、青年たちに『完全な遊戯』を成就させるわけであるが、『完全な遊戯』を望んだ青年たちと、それを理想的に成就させた女との間には、何ら感情の交流はないのに、一種完璧な対応関係があつて、そこにこの小説の狙ひがあることに気づかなければ、ただの非人道的な物語としてしか読まれない」(「解説」『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』筑摩書房、1960)

 と述べている。

 三島は「そこはかとない恋情」を取り除くことで、女を「狂女(純粋な肉=暴行にお誂え向きの存在)」として解釈しつつ、武井たちの「完全な遊戯」を「感情の皆無(感情の交流は少しもない、何ら感情の交流はない)」「機械のような正しい呼吸と韻律」「一種完璧な対応関係」として読み解こうとしている。そして、

「この小説は、青年たちと女との、不気味な照応の虚しさを主眼にしてをり、おとなしい狂女が純粋な肉にすぎずその内部が空洞にすぎないことは、青年たちのがむしやらな行動の虚妄と無意味とを象徴してゐる。青年たちは谺のかへらぬ洞穴へ向つて叫び、水音のしない井戸へむかつて石を投ずるのと同じことで、最後にそのやうにして女は「片附け」られる。しかも最後まで、青年たちは自分の心の荒廃へ、まともに顔をつきあはせることがない。このやうな無倫理性は、『太陽の季節』のモラリストが、早晩到達しなければならぬものであつた。(中略)石原氏は、倫理の真空状態といふものを実験的に作つてみて、そこで一踊り踊つてみる必要があつた。その踊りは見事で、簡潔なテンポを持つてをり、今まで誰も踊つてみせなかつたやうな踊りなのであつた。『完全な遊戯』は、人々が見誤つたのも尤もで、小説といふよりは詩的な又音楽的な作品なのである。それは対立ではなく対比を扱つてゐる」(同右)

 と述べている。

 しかし、三島の読解は武井たちの眼から見えた「女と男たち」の姿について論じたものでしかないだろう。問題は、三島が捨て去った「そこはかとない恋情」が作中に描かれていることであり、その恋情の受け皿として、主人公である礼次が設定されていることなのではないか。実際には「完全な遊戯」には「感情の皆無(感情の交流は少しもない、何ら感情の交流はない)」「機械のような正しい呼吸と韻律」「一種完璧な対応関係」以外のものがある。であれば私たちは、礼次の眼から見える「女と男たち」の姿について考えなければならない。

 

3 ――礼次について

 女は、以上のような武井に対して激しい嫌悪を剥き出しにしている(「貴方、嫌い、嫌い!」「いやよ、貴方は嫌い、非道いわ」「いやっ、いやだ!」「向こうへ行って。嫌いよ貴方は」「馬鹿」「あの人は嫌い」)。それゆえ武井もまた、女には憎まれ口を叩く役割に徹することになるだろう(「泣いてるのか、そんな訳あねえだろう」「へっ、嫌いですまなかった」「何が。仕様がないじゃないか」「いやでも駄目さ、一つぐらい殴ったからってそう邪慳に言うなよ」「嫌いは分かったよ。顔でも洗うんだ、ふうてん奴」)。

 他方で女は、礼次に対しては三島が「そこはかとない恋情」と呼んだ感情を差し向けているようである(「帰って来てね」「礼次さんは」「礼次さん!」)。また、そのことに武井も嫉妬とも冷笑ともつかない言葉を返している(「じゃ同じこ奴にあ惚れたとでも言うのか」「何だおい、とんだ人情は止しにしてくれよ」「お前はどうも得してるぜ(略)こ奴の言うことなら聞くのか」「ちえ、とうとう見入られたぜ」「ほら見ろ、お前に惚れたとよ」)。そのやり取りにおいては、康子という女との事情も引き合いに出される(「でもお前、今夜は堤のパーティーに行く筈じゃなかったのか。お前だって康子にそう言ってたぜ、俺は行くぜ」「おうおう、一寸した亭主面で言うぜ。康子に聞かせてえや」)。それゆえ礼次もまた、女に対しては優しい声を掛ける役割を演じることになるだろう(「大丈夫かい?」「乗れよ、ものはついでだ、助けてやるよ(略)乗れよ、もうあんなことあしやしない」「な、おい、どうせだ、明日まで一緒に仲良くしようぜ。こ奴の言うことも聞いてやれよ」「お前、何処か体悪かったんじゃないのか」「もう一度仲良くしねえか」「お前にあ何だか一寸未練が出てきたぜ」「なるたけ楽なようにしといてやるからな」「ああ、帰って来るよ」「迎えに来たぜ」「本当だよ、だから俺の言うことは聞くな」「良いんだ、もう何処へも帰らなくていいさ」「俺に逢いたかったかってんだよ、俺はお前に逢いたかったぜ」「二人だけで仲良くしような」)。

 これら態度の差異は、武井たちが女を「狂気」「無目的」として補完してしまうのに対して、礼次が女を「理性」「目的」として補完しようとしているのと無関係ではない。たとえば、彼が女の曖昧な態度を「色気違い」扱いする箇所は武井に比べて驚くほど少ないことが分かる(「お前、まんざらこんなことが嫌いでもなさそうだな」のみである)。彼の解釈において、女の理性と目的意識は完全に忘却されているわけではない。このことは、彼が「遊戯」を「合意」のものとして正当化するつもりがないこと、女に狂気の属性を当て嵌め、結果として横浜の家へ帰るという女の目的を否定し切ってしまう気がないことを意味している(「着るんだよ着物を。そのままじゃ何処にも出れまい。横浜にも帰れねえぞ」「冗談じゃねえぜ。じゃ、どこへ行くんだ」「横浜は何処なんだ、こないだ帰ると言っていた横浜てえのあ」「帰れよ、お前はどうもまだ一人じゃ無理だ」「本当に、横浜へ帰らなくて良いんだな、帰りたくないんだな」)。

 そこでは礼次が女を不気味に思うのは、武井とは真逆に、むしろ彼女の「そこはかとない恋情」に対して、すなわち常人も抱きうる一般的感情に対してだろう(「礼次が引き込むように手をのばすと、女はゆっくりと自分でドアに手をかけ入って来た。そんな女の様子に、何故だか礼次は一寸の間、薄気味悪さを感じて仕方なかった」「礼次がかがみこむと女は自分から体を開いて待った。その瞬間、礼次は何かわからぬ、ぞっとしたものを感じたのだ」「入り込んで見下す礼次へ、女は何故か薄く笑いかけた。「よせやい。気味が悪いぜ」」)。したがって礼次が女に対して怒りを露わにするのも、却って女が理性的ではなくなったとき、要するに女が拉致監禁や輪姦に対して真っ当に抵抗しなさすぎるときなのだ(「女はただぼんやりと横から礼次を見つめている。最初の出逢いに窓から覗いた彼を見返したと同じような眼つきだった。ことの後だけに礼次は何故かその眼差しにいらいらしたものを感じてならない」「「もう帰らない」同じ調子で女は言う。礼次は急にかっとしたものを感じて怒鳴った「帰るんだ、横浜へ」)。

 このような細部は、三島由紀夫の読解だけではなく江藤淳の読解からも抜け落ちているかもしれないものである。江藤は、

「果たして『完璧』という観念に人間的なものがあるか。石原氏がここで試み、成功したのは、この観念のほとんど厳粛な空虚さを、抽象化された運動の継起のなかに象徴しようとすることである。『純粋行為』がとらえられればよい」(「『完全な遊戯』について」『石原慎太郎論』作品社、2004)

 と述べている。

 だが私たちは反対に、果たして石原慎太郎はここで「完全」「完璧」という観念を試みているのだろうか、と問わなければならない。文体的なことを無視すれば、たしかに、武井たち男はタイトル通り「完全」「遊び」を口にしている(「「いや、まだあるぜ。明日からもう一度、ひと足違いで俺たちがあの店へ女を迎えに行って、それで何もかも完全に終わりというわけさ」「その割にこの遊びは安く上ったな」横の灰皿で煙草をひねりながら武井が言った」)。しかし、礼次はそのような言葉を発してさえいない(「これでやっと終わらせやがった」と言うのみである)。

 思い返せば、冒頭の場面は本作の物語そのものを隠喩化した風景として読み込むことができる。たとえば打ち捨てられたリヤカーは、あからさまに、直後に打ち捨てられている女と類似している(「盗まれやしねえのかい」「ここらでそんな酔狂もあるまい」という言葉に引き寄せられるように、彼らは女を拉致監禁する酔狂に繰り出す)。そしてそうした冒頭で、礼次は道路の穴に車を躓かせる男、カード遊びに敗れた男として表象されているのである(「やくざな道路奴! 必ずどこかに穴がありやがる!」「馬鹿言え、あんなブリッジなんぞ気にもしてねえよ。俺あ早く帰って寝たいんだ」)。まさしく、やくざな道路には必ずどこかに穴があり、彼はその穴に躓いて「完全な遊戯」に失敗するだろう。これまで論じてきたことから察せられるように、その穴とは女の理性と狂気の曖昧な間隙あるいは目的意識の揺らぎ、言わば女の「そこはかとない恋情」と「色気違い」の振れ幅にあると言ってよい。

 

間奏 ――三島由紀夫を超えて

 以上のような武井たちと礼次の差異、両者に対する女の態度の違いを見なければ、私たちは「完全な遊戯」という物語の筋さえ追ったことにはならないだろう。にもかかわらず、三島由紀夫は「青年たち」という言い方で、平野謙は「ドライ派の青年ども」「残酷を残酷とも思わぬ彼ら」という言い方で、武井たちと礼次の区別には配慮していないように思われる。ましてや、石原慎太郎と他作家との比較優位さえ「君たち」という言い方で回避してしまった佐古純一郎は、問題外と断じる他ない。

 ここで批判しなければならないのは、晩年における三島の発言と、それを下敷きにしたいくつかの批評である。三島は、古林尚から「石原慎太郎が『完全な遊戯』を出したとき、三島さんが、これは一種の未来小説で今は問題にならないかもしれないけれど、十年か二十年先には問題になるだろう、と書いていたように記憶していますが」と問われ、

「あれは今でも新しい小説です。白痴の女をみんなで輪姦する話ですが、今のセックスの状態をあの頃彼は書いていますね。ぼくはよく書いていると思います。ところが文壇はもうメチャクチャにけなしたんですね。なんにもわからなかったんだと思いますよ。あの当時、皆、危機感を持っていなかった。そして自由だ解放だなんていうものの残り滓がまだ残っていて、人間を解放することが人間性を解放することだと思っていた。ぼくは、それは大きな間違いだと思う。人間性を完全にそうした形で解放したら、殺人が起こるか何が起こるかわからない」(「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』1970、12、12および1971、1、1)

 と述べている。それを受けて秋山大輔や中森明夫は、

「(三島由紀夫は)人間が思考を止めて、欲望のみで行動する時代の到来を石原の小説から眺めていたのかもしれない。現代の社会情勢。セックスの低年齢化や、性犯罪の多様化、ドメスティック・バイオレンスの横行を三島は予見していた、極論かもしれないが、『完全な遊戯』の評論は、的を得ているのかもしれない」(秋山大輔「三島由紀夫石原慎太郎」『三島由紀夫研究会メルマガ』2006、2、28)

「『完全な遊戯』は未来小説とも実験作とも称されたが、考えてみれば、この物語のなかで描かれている蛮行はいつでもどこでも現実に起こりうるものではなかったか。いや、二十一世紀の今日に生きる我々は、既に頻発する少女の拉致監禁事件や、あるいは一九八〇年代末の女子高生コンクリート詰め殺人事件として件の小説と酷似する事態が現実化していたことを知っている。(中略)『処刑の部屋』の非道なエピソードもまた、近年、世を騒がせた大学生サークルによるスーパーフリー事件としてすぐに誰もが想起するだろう。こんな衝撃的な事件とそっくりの物語を、はるか半世紀も前に執筆していたというのは、作家の想像力によるものか、(中略)いや、単に当時の若い“太陽族”作家が、おそらく自分の周りで起こる不良少年たちの蛮行をいささかデフォルメして書き留めたにすぎないのかもしれない。そう、ちょっとしたチンピラ話を一丁“小説”にでもでっち上げただけなのだと。そして、そう思わせるところが、石原慎太郎という作家の真の“才能”の恐ろしさでもある」(中森明夫「解説――石原慎太郎の墓碑銘」『石原慎太郎の文学9 短編集I』文藝春秋、2007)

 と書いている。

 このような貧しい紋切り型で作品を予言化してしまえるのは、彼らが「男が女を拉致監禁し輪姦して殺害する」という主要素以外を「完全な遊戯」から排除しているからである。言うまでもなく、女が「白痴」かどうかは不明瞭であり、また「人間が思考を止めて、欲望のみで行動する時代」あるいは「白痴の女をみんなで輪姦する」事態が「今のセックスの状態」「現代の社会情勢」と呼べるほど普遍化した時代などありはしない。さらに「完全な遊戯」は「セックスの低年齢化や、性犯罪の多様化、ドメスティック・バイオレンスの横行」など主要素としてさえ書いていないのである。その貧しさは、佐古純一郎の「いったい人間というものを少しでも考えてみたことがあるのか」「作家としての良心を失っていないのなら、少しは自分の言葉に責任を持つがいいのだ」という道徳的お説教とコインの裏表である。

 私たちはより地道かつ地味にテクスト自体を読み込み、作品の主題や作家の性質を明らかにすべきだろう。そしてそのとき、初めて作家・石原慎太郎は非人間的な予言者から人間的な文学者へと引きずり降ろされ、その文章は具体的な吟味と検証の対象になりうるのである。

 

4 ――遊戯と太陽

 1~3のことから推測しうるのは、石原慎太郎にとって「女」とは理性と狂気の境界を曖昧にしてしまうような存在であること、そして理性と狂気のどちらをもって女を補完するにせよ、それに対して「男」は恐れと怒りを覚えなければならないことである。

 文壇的なデビュー作『太陽の季節』と「完全な遊戯」の間には、あからさまな共通項が数多く含まれている。男は女を酔狂で犯し(礼次と武井は女を拉致監禁して犯し、竜哉は英子をナンパして犯す)、自分を愛し始めた女を金絡みで捨ててしまう(自分に「そこはかとない恋情」を持ち始めた女を礼次は売春宿に放り出し、自分に惹かれ付き纏い始めた英子を竜哉は五千円で兄の道久に売り飛ばす)。しかし、それは結局のところ上手くいかず(女は奇行のせいで売春宿から追い出され、英子は裏取引を知って道久に五千円を送りつける)、最終的には女は自分の所作によって死んでしまう(女は礼次によって突き落とされ、英子は竜哉の子を中絶する手術に失敗する)。唯一の違いは、女の死に対して涙を見せるかどうかである(礼次の感情は「身をのり出し、息をのんだままじいっと耳を澄ます彼の耳へ、重く鈍くものを叩きつける音が聞こえた、と思った」という文章の冗長さにしか現れていないが、竜哉は英子の「自分に対する命懸けの復讐」を感じ、遺影に香炉を投げつける)。

 竜哉の物語において、彼は直接的に英子から「何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの」と問われており、その笑顔の幻影を夢中で殴りつけることしかできていなかった。私見では、石原慎太郎は「完全な遊戯」に至るまでこの問い(「素直に愛することが出来ない」)を抱えていたのではないだろうか。たとえば「処刑の部屋」における克己の物語も同じ問いのもとで読むことができるが、しかし満足な答えを得られたとは言い難いように思われる。そこでは金の問題(良治と竹島)と女の問題(ビールに睡眠薬を入れて犯し、弄んでいた顕子を最後には捨てたこと)がバラバラに展開され、さらに克己自身が「自分に対する復讐」によって「命」の危機に晒される(克己は割れたビール壜で腹を刺される)。そこでは「素直に愛することが出来ない男(主体)」への因果応報は描かれているが、問いそのものへの応答は記されていない。しかるに「完全な遊戯」においては、礼次と武井たちという複数の男から多面的に女を捉えることで、自分にとって「素直に愛することが出来ない女(客体)」とはどのようなものかを簡潔に描き切ったのではないだろうか。そのように考えれば、なるほど本作は――そのジェンダー論的な是非はひとまず置いておくとして――石原慎太郎にとってひとつの文学的達成点であり、優れた作家性の発露なのである。