鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

マルティン・ハイデガー『存在と時間』についてのノートその1

不正確なノートその1

 マルティン・ハイデガー存在と時間』は「存在者」と「存在」を区別した。存在者が経験的な領野において人や物として個別的かつ具体的に存在しているのに対し、存在は超越論的な観念の領野において人や物を統合的かつ抽象的に規定しているわけだ。ここで注目すべきは、ハイデガーの哲学が、存在者の領野と存在の領野を接続し循環させる存在者として「現存在=人間存在」を定位したことである。現存在は経験的な領野において個別的かつ具体的な存在者として存在しながら、存在の呼び声を聴き、超越論的な領野において統合的かつ抽象的な存在について思考しているのである。世界=内=存在とは、現存在が世界の内部において経験的に所属しつつ、同時に世界そのものを超越論的に構成していることを意味している。

 

不明瞭なノートその2

 マルティン・ハイデガー存在と時間』は「存在」の意味に関する問題、すなわち私たち人間はどのような意味で「存在」という言葉を使っているのか、という問題を提示している。存在の問題が近代において反復されなければならないのは、それが適切な形で解かれたことも適切な形で問われたこともないからである。ハイデガーによれば、超越論的かつ観念的な存在の問題(哲学)は、経験的かつ物質的な存在者の問題(科学)と区別されなければならない。そして、あらゆる問題のなかでも存在の問題は存在者の問題に先行して解かれなければならず、存在の問題のなかでも存在は存在者に先行して問われなければならないのである。ところで存在の意味を解釈するためには、最初の作業として私たち人間がどのように存在しているのか分析しなければならず、最後の作業として存在の問題の歴史を解体しなければならない。前者が第一部「現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」に、後者が第二部「時節性の問題組織を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体する」に該当するだろう。本書は現象学的方法、すなわち私たち人間が存在との間に有している関係から遡行して、全ての存在者が存在との間に有している関係を明らかにする方法を採用するわけである。

 ハイデガーは「存在」の意味に関する問題の準備として、現存在、すなわち私たち人間に対して基礎的な分析を加えている。その主題は繰り返せば、私たち人間がどのように存在しているのかという分析である。人間を超越論的かつ経験的な現存在として分析する存在論は、人間を単なる経験的な存在者として分析する人間学や心理学や生物学とは少しく異なる。私たち自身がどのように存在しているのか分析するということは、あらゆる文明的先入観を退けた裸の私たち自身を解釈するということであり、あらゆる文明的先入観を退けた裸の世界概念を獲得するということなのである。ここで確認すべきは、現存在の根本的構成が「世界=内=存在」であるということ、すなわち私たち人間が人間であるためには世界の内部に存在していなければならないということである。世界=内=存在について素描するためには、私たち人間がどのような形で世界の「内部に存在している」のか示す必要があるだろう。また私たち人間がどのような形で世界の「内部に存在している」のかを示すためには、まず私たち人間がどのような形で「世界」を認識しているのかを示す必要があるだろう。

 私たち人間がどのような形で「世界」を認識しているのかを示すためには、私たち人間にとって環境や実体や空間がどのようなものか示さなければならないだろう。はじめに世界から派生するものは環境(身の廻り)である。私たちの環境おいて出会う他の存在者たちは、私たちの環境に適合されることを通じて世界の内部に存在していると言うことができる。往々にして他の存在者たちは標識や記号であり、私たちの趣向な意義に合ったものとして存在しているのである。こうした環境から発生するものが実体である。世界は私たちの実体によって規定されたものであると同時に、私たちの存在の問題を基礎的に規定するものだと考えられる。それは他の哲学にとって世界が主観的あるいは客観的に存在しているのに対し、ハイデガーの哲学にとって世界が主観的かつ客観的に存在している、ということである。そうして実体から派生するものが空間である。世界の内部において道具としてある他の存在者たちが私たちの空間を構成し、世界=内=存在が空間を統整することにより現存在もまた空間を構成していくのである。

これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性

 東浩紀『セカイからもっと近くに』(2013)は「著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論」として書かれた。このことは翻って、エッセイ集などを除く東浩紀の著作には「文芸評論」が存在しなかったこと、すなわち文学的作品それ自体を対象にした批評がなかったことを意味するだろう。あの『動物化するポストモダン』にせよ『ゲーム的リアリズム』にせよ、その本論で扱われているのは作品の位相を下支えする環境の位相であって、作品そのものではない。かつて出版された「東浩紀コレクションLSD」の副題が明確に示しているとおり、彼の評論は「文学環境」と「情報環境」についてのものだったというわけだ。

 

 東浩紀は『セカイからもっと近くに』のなかで「セカイ系」の問題を取り上げ、現実と虚構の再縫合を試みようとしている。セカイ系の問題とは、政治的な想像力と文学的な想像力が乖離してしまったこと、要するに共同的な幻想と個人的な幻想が切断されてしまったことになるだろう。現実と虚構を再縫合するとは、政治的な想像力と文学的な想像力を再接続するということであり、共同的な幻想と個人的な幻想を再接合するということに他なるまい。東自身は「想像力と現実」「文学と現実」「虚構と現実」等を対置しているが、ここでは話を分かりやすくするために、現実などという不明瞭な言葉は忘れてしまった方がいい。さらに本書ではラカン精神分析の用語「想像界」「象徴界」「現実界」が用いられているが、ここでも話を分かりやすくするために、ジャック・ラカンなどという胡散臭い男は忘れてしまった方がいいだろう。

 ところで『セカイからもっと近くに』は、政治的な想像力(共同的な幻想)と文学的な想像力(個人的な幻想)を再縫合するための中間項を、いったいどのようなものとして構想しているのか。吉本隆明共同幻想論』を読んだことがある者なら、すぐにでも「対幻想」という答えが思いつきそうではある。いささか乱暴に要約しておけば、吉本の唱える共同幻想マルクス主義の上部構造に相当するものであり、対幻想はフロイト精神分析のリビドーに相当するものである。1968年の書物である『共同幻想論』は、政治的な想像力(共同幻想)とも文学的な想像力(個人幻想)とも異なる、言うなれば性愛的な想像力を第三項ないし中間項として据えていたのだった。果たして東浩紀もまた、個人幻想のループを乗り越えて未来に至るための想像力として、対幻想としての家族や恋愛といったものに切り込んでみせるのである。

 ここで注目すべきは、東浩紀が性愛的な想像力のうち「快楽」や「欲望」ではなく「生殖」を重視しているということである。再び吉本隆明に立ち戻ってみれば、対幻想とはなによりもまず生殖によって広がる血縁のネットワークであり、同性愛や両性愛や非性愛の問題はいったん脇に追いやられていたのだった。東および吉本にとって必要なのは、性愛の主体論的なレベル(快楽する自己、欲望する自己)ではなくコミュニケーション論的なレベル(遭遇する自己、産出する自己)なのである。それはフランス現代哲学的には、ミシェル・フーコー(快楽)でもジル・ドゥルーズ(欲望)ではなく、ジャック・デリダ(生殖)の視座に着くということを意味するだろう。政治的な想像力(共同幻想)と文学的な想像力(個人幻想)の再縫合という課題を思えば、もちろん、以上のごとき態度は妥当なものであるかもしれない。

 だが改めて述べるまでもなく、かかる図式はジェンダー論的ないしクィア理論的な吟味に曝されるものであり、吉本は『対幻想――n個の性をめぐって』において応答の必要性に駆られている。ヘテロセクシュアルの男女を特権的な立場に置く理論は、様々なセクシュアルマイノリティに関する理論とどのように両立しうるのか……このことは多くの論者にとって簡単に答えられる問題ではないだろう。以上の歴史を踏まえれば、東浩紀が単純に血縁のネットワークのみをよしとしているわけではないこと、だからこそライトノベルやミステリやアニメやSFの豊饒な想像力に依拠し、産む女ならぬ「憑く女」に美的関心を寄せているのであろうことは疑いを入れない。我々はここで、対幻想という概念が現代的にアップデートされる気配を感じ取ってもいいだろう。肯定的にせよ否定的にせよ、本書は「対幻想」を巡る歴史的認識なしには評価することの難しい書物である。

 

追補

 拙ブログに言及してくださった記事があるので、この場で応答したいと思います。

「女の子同士の不可能な出産――東浩紀の『魔法少女まどかマギカ』disを巡って」

 http://rodori.hatenablog.com/entry/2014/01/08/104633

 先の記事では拙ブログの柄谷行人柳田国男論』に関する記事を取り上げ、柄谷行人吉本隆明の上部構造論に反して下部構造を再評価していること、ゆえに柄谷行人から影響された東浩紀もまた下部構造を再評価していることなどが述べられています。つまり東がアーキテクチャと呼ぶものは下部構造に相当するものであり、彼の性愛論もまた下部構造への評価から来ているというわけですね。先の記事では、かかる図式を乗り越える思想家としてミシェル・フーコーを挙げるとともに、東浩紀の『存在論的、郵便的』のイデオロギー論を再吟味することでこれに応答する予定のようです。

 ところで私は、東浩紀『セカイからもっと近くに』において語られているのは徹底して上部構造の問題であり、これまでの「情報環境」「文学環境」についての著作とは微妙に異なるものだと考えています。ゆえに東の性愛論は、どちらかといえば下部構造というよりも上部構造への評価から来ているものではないでしょうか。

 なお先の記事で採り上げられている拙ブログの記事は、吉本隆明柄谷行人の対立を上部構造論VS下部構造論として単純化していますが、これはいささか乱暴な要約であって正確には異なります。柄谷は『トランスクリティーク』の時点で上部構造と下部構造の対立を脱構築してしまったのであり、その結果として、交換様式ABCDから世界史的段階を眺められるようになったと言うべきでしょう。もし仮に東浩紀を批評史的に位置づけるとするならば、彼という思想家は、柄谷が一元論化した上部構造と下部構造を改めて二元論化した者として捉えるのが適当かもしれません。

 むろん、私は『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版新編『叛逆の物語』を高く評価しており、そこで私の性愛観は東および吉本のそれとは大きく違っているということになるでしょう。しかし……今回はそこまで踏み込む余裕を持っていません。したがって以上をもって応答としたいと思います。

加害としての被害、悪意としての善意 ――山城むつみ『連続する問題』を読んだ

 ……被害の事実を誇張することで自身の加害の事実を「なかった」ことにする姑息な被害者意識、加害者としての自己を他者に投影した上で他者を攻撃する臆病な雄々しさに身を委ねてはならない。確固たる加害者を自己に発見する勇気を、まずは、自己のうちに育てよ(山城むつみ『連続する問題』)。

 

 山城むつみ『連続する問題』(2013)は、中野重治小林秀雄ヒョードルドストエフスキーなどに依拠しながら、過去の歴史から現在の我々に至る「連続する問題」を問おうとしている。それは「近代日本の視野における朝鮮の位置づけをめぐって構造的に生じる奇妙な盲目性」の問題、すなわち、日本が韓国・北朝鮮を対等な他者として扱ってこなかったという問題である。そして、このことは過去の歴史から現在の我々に至る「連続する問題」であるのみならず、保守的言説から革新的言説に至る「連続する問題」なのである。どういうことか?

 山城は「謝罪」をめぐって、日本の植民地問題と北朝鮮拉致問題に言及している。北朝鮮は植民地問題に関しては被害者だが拉致問題に関しては加害者であり、日本は拉致問題に関しては被害者だが植民地問題に関しては加害者である。そして北朝鮮拉致問題について実質上の「謝罪」など行っていないように、日本もまた植民地問題について実質上の「謝罪」など行なっていない。なぜなら、北朝鮮が拉致実行当時から現在に至るまで本質的に何も変わっていないように、日本は植民地支配当時から現在に至るまで本質的に何も変わっていないからだ。これは日本国憲法象徴天皇制を批判しようが、戦前・戦後の保守主義者を批判しようが解決することではない。というのも日本の革新主義者が象徴天皇制保守主義者を批判しようとするとき、彼ら自身は戦前・戦後において本質的に何も変わっていないからである。

 保守においても革新においても全く変わっていない本質とは、自分を「善=被害者」に置きつつ相手を「悪=加害者」に置くような態度である。ある種の保守主義者は戦前の日本について「善を為そうとしていた」と主張し、ある種の革新主義者は戦前の日本について「悪を為そうとしていた」と主張している。いずれにせよ、自分たちは善人であり被害者であると言っているだけだ。当初の北朝鮮が善を為そうとしていたかもしれないように、当初のソビエト連邦が善を為そうとしていたかもしれないように、戦前の日本もまた善を為そうとしていたのかもしれないではないか。そしてそのように善を為そうとしていたはずの日本人が、大震災の折に朝鮮人を虐殺したのかもしれないではないか。善を為そうとしているうちに悪を為してしまう人間の問題、被害者として振る舞っているうちに加害者になってしまう人間の問題、それを山城は問うのである。(注)

 あるものを「善=被害者」に置きつつ別のものを「悪=加害者」に置くような構造において、おおよそ我々は、全く異なる善悪や被害加害の価値判断を持った「他者」の存在を忘れてしまっている。たとえば子供が「他者」であることを忘れたとき、母親は「子供のために=善を為そうとして」子供を殺害することができるだろう。あるいは後進国が「他者」であることを忘れたとき、先進国は「後進国のために=善を為そうとして」後進国を爆撃することができるだろう。あるいは女が「他者」であることを忘れたとき、男は「女のために=善を為そうとして」女を殴打することができるだろう。そして以上のごとき全ての事象に関して、私たちは逆のことも言いうるのである。ここで必要なのは、比喩的に言えば、一方的なサプリメント投与によって相手を変えるような医学ではなく、相互的なカウンセリングによって自他を変えるような医学なのだ。

 数少ない例外を除けば、右派だろうと左派だろうと反動だろうと革新だろうと保守だろうとリベラルだろうと、大した差異はないと言ってよい。彼らは……いや我々は、要するに「我々は善人であり被害者だ、彼らは悪人であり加害者だ」と言ってきただけ、本質的な謝罪も変化もせずに戦前から今日までを生き延びてきただけ、そうして「他者」を「他者」と認めずに内ゲバを繰り返してきただけなのだ。具体的には、韓国のことも北朝鮮のことも対等な隣国として認めずに内ゲバを繰り返してきただけなのだ。山城むつみ『連続する問題』は政治に対して重い言葉を投げかけている。そしてそれは、あくまで文学の言葉なのである。

 

(注)もうひとつ、全く変わっていない本質がある。それは憲法の本質である。ある種の保守主義者は日本国憲法に対して「再軍備」「天皇制」の復古を主張し、ある種の革新主義者は日本国憲法に対して全く逆のことを主張している。いずれにせよ、戦後憲法は戦前憲法とは違ったものだと言っているだけだ。しかし、戦後の日本は軍隊を持っているし天皇制を持っているのではなかったか、あまつさえ戦後憲法には昭和天皇による公布の詔があるのではなかったか。何も変わってなどいないのではないか。真っ当な保守は、そもそも軍隊を持ち天皇を利用するような「新しい」状況そのものに抗えばいいし、真っ当な革新もまた、そもそも軍隊を持ち天皇を利用するような「古い」状況そのものに抗えばいいのだ。大日本帝国憲法から日本国憲法に変えられたにせよ変えたにせよ、我々は本質的には何も変わっていないし謝罪もしていない。

 

(なお「朝鮮人」という表記は山城氏に従った)

黒瀬陽平『情報社会の情念』について

 黒瀬陽平『情報社会の情念 ――クリエイティブの条件を問う』(2013)は、私にとっては今ひとつピンと来ない美術批評だ。タイトル通り、情報社会におけるクリエイティブの条件を「情念」などの概念から説明する本書は、しかし著者が警戒する「情報社会の球体」に回収されてしまっているのではないか。

 

 本書では「運営の思想」と「制作の思想」が対比され、両者はそれぞれ「必然」と「偶然」に対応している。しかし、このような対比は適切なのだろうか。たしかにビッグデータの時代とも言われる現代においては、データマイニングを駆使したパーソナライゼーションやプラットフォームの運営・設計が、閉塞空間の演出や良質な作品の産出などを左右している。とはいえ、そのことは直ちに個人の創造性を脅かすものではないだろう。たとえばソーシャルゲームにおいてもニコニコ動画ボーカロイド文化においても、現実には作者の作家性が存在していることは明らかである。全てが必然的に計算され、作品が自動生成されるかのようなこのユートピア的かつディストピア的な状態を、著者である黒瀬陽平は「情報社会の球体」と名指して否定的に捉えている。だが実際に作品が自動生成されているわけではない以上、私たちはこの球体なるものをディストピアとして否定するには慎重であらねばならない。

 他方で黒瀬陽平は、クリエイティブに「制作」されたコンテンツがもたらす偶然的な遭遇、すなわち愛すべき他者・外部とのコミュニケーションを肯定的に捉えている。にもかかわらず、偶然や他者・外部といった概念についての説明はほんのわずかである。そもそも偶然性は必然性と隔てられて存在するのか、あるいは他者・外部は自己・内部と隔てられて成立するのか。そうした疑問が、たとえばTVアニメ『らき☆すた』や特撮番組『仮面ライダーディケイド』の解釈によって払拭されることはない。むしろそれらの作品が現実に行なっているのは、コンテンツによるプラットフォームの「相対化」ではなく「再強化」ではないだろうか。本書を貫く主題は「ビッグデータの時代に、なぜぼくたちはものを作るのか」「クリエイターは不要なのか?」といった問いになっているが、その根拠と必要性(=nécessité)が説得的に示されれば、却ってクリエイターの存在は因果と必然性(=nécessité)に回収されてしまうだろう。

 運営の思想(=必然性)と制作の思想(=偶然性)の区別が不充分であるために、黒瀬陽平『情報社会の情念』の議論はいささか混乱したものになっていると私は考える。それは端的に、寺山修司岡本太郎論に現れている。

 本書では、制作の思想に関わるものが「負の拡張現実」「キャラクターの呼び声」と名指されている。拡張現実には仮想現実とは異なる両義性、言わば「正=生のポジティブな力」と「負=死のネガティブな力」の両方が備わっており、後者は歴史的な勝者ではなく敗者(=満たされない霊)の情念を掬い上げることに役立つ。現実と虚構を遭遇させ、プラットフォームの創発性をコンテンツの創造性に転位すること、運営の思想を制作の思想に交差させることがクリエイティブの第一条件になるというのだ。そこで本当は見たくないもの、ヴァールブルグ的な情念定型(=イメージのダイモン)としてのキャラクターの呼び声(=マンガのおばけ、キャラクターのおばけ)を掬い上げることがクリエイティブの第二条件になるらしい。著者である黒瀬陽平は第一条件を寺山修司論(『人力飛行機ソロモン』『ノック』)として、第二条件を岡本太郎論(『太陽の塔』『明日の神話』)および冨樫義博論(『ハンター×ハンター』)としてまとめている。

 しかし、第一条件(負の拡張現実)と第二条件(キャラクターの呼び声)の関係は曖昧なものに留まっている。寺山修司が「負の拡張現実」によって掬い上げた「情念」と、岡本太郎が「負の拡張現実」によって掬い上げた「情念定型」はやはり別物ではないか。拡張現実に歴史的な敗者の情念を掬い上げる力があるとしても、その情念が、絶えずヴァールブルグ的な情念定型として掬い上げられるとは限らないように思われる。黒瀬陽平は現実と虚構、運営の思想と制作の思想、プラットフォームの創発性とコンテンツの創造性を次々と対比させていくが、なぜか寺山修司論は岡本太郎論の側へ回収されている。それは彼らの論争に現れている差異が、先述のような対比では捉えられないものだったからではないだろうか。少なくとも私自身は、そこで言われている寺山の言葉(「本質よりも行為が先立つべきだ」「前衛の体系化を急ぐべきではない」)や岡本太郎への疑義が、椹木野衣が言うところの「悪い場所」に居直るようなものなどではないと思うのである。

 では、寺山修司(情念)と岡本太郎(情念定型)を隔てる適切な対比とはなにか。ここから先は、読者である私自身の課題である。

 

補足

 黒瀬陽平は、2011年3月11日に起きた東日本大震災を序文でも本文でも特別視しており、たとえば冨樫義博論において震災以後というコンセプトを強く打ち出して記述している。とはいえ『らき☆すた』や『仮面ライダーディケイド』が肯定的に扱われる本書の枠組は、基本的に、震災以前や震災以後といった区分には影響を受けないものではないだろうか。ましてや寺山修司岡本太郎などが召喚されるならば、その問題意識は「ビッグデータの時代」という狭いものではありえないはずだろう。そもそも黒瀬の『ハンター×ハンター』論は、震災以前から伏線を張られていた物語を震災以後の表現とする強引なものが含まれるが、そのような強引さが可能なのは初めから彼の美学が震災に影響されていないからである。私自身は、黒瀬陽平が「おわりに――両義性の女神」で記したような経験がどのようなものか知らない、だが、それが本来なら震災とは別の言葉で語られるべき経験だったことくらいは分かる。

 彼がそれを正しい言葉で語れるようになるのを、その著作を私は待つことにしたい。

 

超現実性のゼロ年代、超虚構性のテン年代 ――藤田直哉『虚構内存在』について

 藤田直哉『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(2013)は、筒井康隆の必要性を証明しながら二つの理論「超虚構理論」「虚構内存在」を描画し、2010年代における新たなる生の次元を開拓している。教育と進歩がもたらした破壊と、メディアが作る「現実」によって現実認識が相対化される現在、敗戦とともに出発した筒井康隆の問題意識は再び注目に値するというのだ。先に結論を言えば、それは現実と虚構を統合するにあたって想定される二つの態度、すなわち「超現実性」と「超虚構性」の微妙だが決定的な差異である。

 

 まず重要なのは、戦後史のなかで筒井康隆が「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」を峻別したことである。第二次世界大戦を経験した日本SF第一世代である彼は、40~50年代における廃墟のなかでの「笑い」を、卒業論文「シュール・リアリズム芸術の創作心理学的立場よりの判断」で追究していた。60年代におけるラディカリズムと大衆的熱狂を経た70年代、筒井はその「笑い」を政治性(≒超現実的な武器)としてではなく、単なる面白さ(≒超虚構的な楽器)として試みている。それは饒舌によって政治的問題を回避したあげくレトリックの宿命として陳腐化を迎えることではなく、新しい言語感覚の創造を目指すことにあったと言えよう。80年代におけるポストモダニズムの知的カーニバルのなかでも、90年代における断筆宣言のなかでも、筒井康隆にとって「楽器としての笑い」は人類の宿命的課題だったのである。

 二つの笑いの峻別は、そのままジークムント・フロイトフリードリヒ・フォン・シラーの対比を意味するだろう。筒井康隆は現代SFの特質を虚構と現実という問題意識に見出し、あらゆる美における道徳的合目的性をシラー美学的悟性の名のもとに統合している。想像力を圧迫する自然主義(=現実性)の技法も想像力を解放するSF(=虚構性)の技法も、パラドックスに満ちたシラーの語彙「現象における自由」「美しい仮象」「美的国家」を円環の接点にして内的宇宙に包摂されるというわけだ。現実と虚構の二項対立を超えてあるような位相を想定する彼の理論は、言わば、フロイト的文化・芸術論由来のシュール・リアリズム論(=超現実性)からシラー的美学から来るSF論(=超虚構性)への移行のうちに現れたのである。

 こうした「超虚構性」の位相においてこそ、虚構内存在の存在論は説明されることになる。筒井康隆は「存在(=現実性)を記号(=虚構性)にする」のではなく「記号(=虚構性)を存在(=現実性)にする」ことを目論み、明らかに「世界内存在」を意識した概念「虚構内存在」を立ち上げ、さらに虚構内存在との感情移入による共同存在を説こうとしている。虚構内存在は世界内存在とは異なり、日常性の前衛性を……ただし「超現実的な日常性」ではなく「超虚構的な日常性」を肯定しようとするものである。いささか乱暴に要約してしまえば、それは「超現実性」においては「存在(=現実性)を記号(=虚構性)にする」ことが目論まれてしまうこと、言い換えれば、そこには倫理の介在する余地がありえないことを危惧していたのかもしれない。

 以上のような区別は、おそらく内的宇宙の神話における「集合的無意識」と「文化的無意識」の違いと結びつくものと考えてよい。筒井康隆はカール・グスタフ・ユングを摂取し、夢のうちに多元宇宙と役割演技を読み込むと、意味を更新し生起させる「準拠枠」を集合的無意識(→超現実性)ではなく文化的無意識(→超虚構性)に求めた。個人的無意識と集合的無意識の「あいだ」にある文化的無意識こそが、政治的反抗さえ管理する絶望的な権力の場であり、ルートヴィヒ・ビンスワンガー的現存在分析の対象となる言語生成の場なのである。メタフィクション的虚構意識が大衆化し、虚構内存在がネット内存在として一般化している現在、藤田直哉は上記の区別にこそ虚構内存在の倫理を打ち立てようとしている。いわゆるゼロ年代思想において唱えられた「ゴースト」「集合的無意識」と、筒井康隆の唱える「虚構内存在」「文化的無意識」の微妙だが決定的な差異に彼は拘るのだ。それはさらに、生の意味と意義をめぐる小松左京筒井康隆の微妙だが決定的な差異、つまり滅亡観の差異や「人工実存」と「虚構内存在」の差異でもあるだろう。

 

 もちろん、私は藤田直哉(が解釈した筒井康隆)の立場に全面的に賛成できるわけではない。たとえば「笑い」は「機械化した良識」に抵抗するものとされているが、個人的には「笑い」より「機械化した良識」を擁護すべき場合もあるだろうと思う。そもそも、本当に「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」は峻別できるか、超虚構性と超現実性を内的宇宙に包摂するような円環の接点もあるのではないか。だとすれば集合的無意識に基づくゴースト論と文化的無意識に基づく虚構内存在論は……ゼロ年代思想と藤田直哉の思想は、どこかで「合意」に至ってしまうのではないか。そのような疑問がないわけではない。むしろ私自身は「機械化していない良識」が果たして可能なのか、そしてそれがもし可能ならどのような様態においてかを問うていく必要を感じる。

 しかし逆説的だが、そのような「合意」の可能性(和解の可能性、ではない)こそが藤田直哉の特質であり魅力ではないだろうか。帯文の惹句「10年代本格批評の誕生!」が与える印象とは裏腹に、どちらかといえば本書はゼロ年代思想のうちに留まりながら攪乱と内破を試みる、そのような文芸批評である。3・11という記号に抗いながら福島第一原発観光地化計画に疑問を投げかける序文は、まさしくゼロ年代やロスジェネという未解決の思想的問題に立ち止まろうとするものだ。文化的無意識が個人的無意識と集合的無意識の「あいだ」にあるごとく、彼もまた「あいだ」で思考する批評家なのである。

このボカロ曲がすごい! ――2013年版

①ATOLS『プリセット』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm21868513

②task『明けない夜を壊せ』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm19806841

③じーざすP『しんでしまうとはなさけない!』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20331479

sasakure.UK『ツギハギエデン』

http://www.nicovideo.jp/watch/1369906979

⑤sleepless『Cryogenic』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm21177055

⑥tilt『ヒカレルサテライト』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20433562

⑦ピノキオP『ひとりぼっちのユーエフオー』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm21274195

⑧niki『SILENCE』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm21604460

⑨椎名もた『ピッコーン!!』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm21935765

くるりんご『幸福な少年』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20184946

 

+α

じん『ロスタイムメモリー』『サマータイムレコード』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20470051

http://www.nicovideo.jp/watch/sm21737751

 

なお順不同・敬称略。

批評という檻、解釈の迷宮 ――山川賢一の初期三部作について

 山川賢一は新進気鋭の文芸批評家として、これまでに三つの単著『成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論』(2011)『Mの迷宮 『輪るピングドラム』論』(2012)『エ/ヱヴァ考』(2012)を上梓してきた。全て近年話題になったオリジナルアニメーション作品を題材にしたものであり、さらに、いずれも共通の主題を扱った論考になっていると言ってよい。それは最新作『エ/ヱヴァ考』の語彙を借りれば、私たちの正義を堕落させる「偽りのリアリティ」をめぐる問題であり、そこで経験される「ホメオスタシスとトランジスタシス」の葛藤である。

 

 簡単に説明しておけば、偽りのリアリティとは文字どおり虚偽の現実性によって私たちを閉じ込める檻であり、ホメオスタシスとトランジスタシスとはそこで経験される維持と変化の葛藤である。たとえば偽りのリアリティは、処女作である『成熟という檻』ではタイトルどおり「成熟という檻」と名指され、続く『Mの迷宮』では「全体主義」として大きく打ち出されていることが分かる。ホメオスタシスとトランジスタシスは、『魔法少女まどか☆マギカ』における暁美ほむら鹿目まどかの対比や、『輪るピングドラム』におけるピングドラムと運命日記の対比に近しい。いささか乱暴な要約だが、山川賢一が三つの著作で反復的に類似した問いに注目していること、そこに批評家としての特性が早くも現れていることは明らかだろう。

 もちろんこの共通性は、山川自身によって宮崎駿風の谷のナウシカ』の多大な影響から推測されており、ひとりの読者としては彼が新しい現代日本文化史観を描くことに期待する他ない。しかしそれ以外に重要なのは、彼が主題とする偽りのリアリティがそのまま批評上の方法論的な問題であること、ホメオスタシスとトランジスタシスもまた批評上の倫理的な問題でありうることだ。大袈裟に言ってしまえば、それは私たちが具体的な現実を往々にして抽象的な観念に閉じ込めてしまうこと、それを騙ることによって偽りのリアリティを形成してしまうことへの批判である。たとえば山川は『エ/ヱヴァ考』において、宇野常寛ゼロ年代の想像力』の語る「ひきこもり&心理主義決断主義史観を批判したのち、以下のように語っている。

「いわばこの手の流行(引用者注――俗流のポストモダン論)こそが、日本の論壇を支配する「偽りのリアリティ」なのだ。ぼくは今まで、『エヴァ』を通じてこのテーマをとりあげてきたけれど、作品設定の話だけをしてきたつもりはない。偽りのリアリティは、今もこの世界のいたるところに存在し、人々の目をくらませているのだ」(p179、p180)

 この問題が厄介なのは、いみじくも彼自身が「謎解き派」と「批評派」の乖離を取り上げているように、優れた批評は現実なしで済ますことも観念なしで済ますこともできないからだ。抽象的な主題の抜け落ちた解釈は「謎解き」であり、逆に具体的な細部を切り捨てた解釈は「恣意的な批評」でしかない、そうした厳しい批評上の方法論的課題を山川は問うているのである。ホメオスタシスとトランジスタシスの葛藤は、以上の方法論から導かれる批評上の倫理、つまり内的観念に対する維持と外的現実に応じた変化の試行錯誤でもあるのではないか。まさしく彼は、ホメオスタシスとトランジスタシスの葛藤という主題と批評における規範意識を、ともに「他者とのコミュニケーション」という観点から語ってもいるのだ。

「僕はこのテーマを主に、強すぎる信念は独善や固執を生むけれど、信念がなければ周囲に流されるだけになってしまう、というパラドックスとして論じてきた。しかしこれを私的なコミュニケーションという切り口から見れば、自己を強く維持すれば他人とのあいだに壁を作ってしまうが、しっかりした自己のない人間とはそもそも実りあるコミュニケーションはできない、というパラドックスになっている」(p198)

「批評する者にとって作家は他人だから、作品を読み込めば、必ずこちらの先入観を覆すところが出てくる。ぼくの経験では、分析の過程で最初の解釈が崩壊しなかったことは一度もない。『エヴァ』旧劇場版ではないけれど、他人を理解するのは骨の折れることなのだ。しかし難解な箇所にこだわってあれこれと頭を悩ませないかぎり、批評は作品に自分の思い込みをぶつけるだけのものになってしまう」(p218)

 自己を強く維持すれば他人とのあいだに壁をつくってしまう(≒細部を切り捨てた恣意的批評になってしまう)が、しっかりした自己のない人間とはそもそも実りあるコミュニケーションはできない(≒主題の抜け落ちた謎解きになってしまう)。言い換えれば、批評家は「最初の解釈」「先入観」なしに始めることはできないが、かといって「思い込みをぶつけるだけのもの」で終えるわけにはいかない。山川のスタイルもこの試行錯誤のなかで洗練されてきたのかもしれないが、もちろん、私は彼のスタイルが正しいとか間違いだとか言えるような立場にはない。ただ私が感じているのは、こうした問題に「あれこれと頭を悩ませる」経験こそが必要なのだということ、それを踏まえることで人は優れた批評家になるのだということである。