鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

「人それぞれだよ」がダメな理由――井上達夫『世界正義論』感想

 井上達夫『世界正義論』は一言で言えば、「国境を越え、覇権を裁く正義」としての世界正義を追求する書物である。それゆえ、彼は「正義は国境を越えられない」という立場と「正義は身勝手に国境を超える覇権的なものでしかない」という立場を共に乗り越えなえればならない。要するに、井上は「正義は人それぞれだよ」論と「正義の押し付けはよくないよ」論の両方を反駁する必要に駆られているのである。

 本書は五つのパート、すなわち①メタ正義世界論、②国家体制の国際的正統性、③世界経済の正義、④戦争の正義、⑤世界統治機構に分かれている。このうち①②③が「正義は人それぞれだよ」論への応答であり、④⑤が「正義の押し付けはよくないよ」論への応答である。まず、井上は「そもそも世界正義は可能なのか?」「可能なら、国際的に正しい国家体制はあるのか?」「そうした国家は、世界貧困の解決に取り組むべきなのか?」に答え、正義が国境を越えることを示すだろう。次に彼は「正義のために戦争をしてもいいのか?」「世界はどのように統治されるべきなのか?」に答え、正義が覇権を裁くことを教えてくれる。

 

 乱暴との誹りを覚悟しながら、単純に整理していこう。「正義は人それぞれだよ」論者にとっては世界正義など初めから不可能である以上、国家体制も好きにすればいいし、世界貧困の解決に腰を上げるかどうかも自由である。というのも、あらゆる価値観は相対的な「イデオロギー」に過ぎないから、というわけだ。そこにあるのは、国家の内外で正義の基準が異なっていても構わない、ヒエラルキー社会であろうと「節度」が守られていればいい、経済だって貧窮国民の「自己責任」ではないか、という意識である。それに拍車をかけるのは、正義よりも平和の方が大切だ、という諦観的平和主義だろう。言い換えれば、「なにをしてもいいが、他人に迷惑をかけるな」論である。

 井上は、この立場に論争を仕掛けている。世界正義は可能であり、国家体制を「好きにすればいい」で済ますことはできず、世界貧困の解決を目指すかどうかは「自由」な問題ではない。既にグローバル化が浸透している現在、国家の内外で正義の基準は同じでなければならない。また、ヒエラルキーを「節度」において許すこともできない。そのような社会を認める行為は、当の差別に国際的な特権を与えることに他ならないからだ。そして経済は、貧窮国の「自己責任」だけではなく富裕国の「加害」を考慮すべきである。ならば私たちは積極的であれ消極的であれ、財産を「分け与える」と同時に「お返しする」義務を持っているはずだ。結局のところ、正義よりも平和が大切だ、という諦めは自壊せざるを得ないのである。「なにをしてもいいが、他人に迷惑をかけるな」論に対する『世界正義論』の反論は、「今まさに我々は他人に迷惑をかけているのだから、なにをすべきか考えろ」というものになるだろう。

 他方で「正義の押し付けはよくないよ」論者の反発は、「正義は人それぞれだよ」論者のそれよりも遥かに込み入っている。彼らにとっては世界正義など覇権国家(たとえばアメリカ?)の身勝手でしかない以上、いちいち国家体制に口出ししてほしくないし、世界貧困の解決を言い訳に搾取されたくもない、ましてや戦争の正当化なんて論外だし、世界統治機構とやらも御免である。だいたい欧米の都合でしょ、というわけだ。これに対して井上がどのような説得を試みているのかは、実際に読んで確かめて頂きたい。個人的な印象では、井上はこちらのハードルを克服する方が苦戦しているし、また苦戦すべきだと思われる。

 

 私は基本的に、哲学に関して「議論」や「説得(説き伏せ、従わせること)」が好きではない。それよりも「誘惑(誘い、導くこと)」が哲学の本性だ、と考える方が性に合っている。だがこのことは、「押し付けはよくないよ」という意味ではあっても「人それぞれだよ」という意味ではない。というか、私はおそらく「議論」や「説得」以上に「人それぞれだよ」が嫌いだろう。それは端から他人の話をシリアスに受け止めず、コミュニケーションを断絶させるような態度だからだ。

 いかに「押し付け」の横暴を避けつつ「人それぞれ」の欺瞞を退けるか。地味かつ地道なこの努力こそ、本書を真の意味で「論争的」にするものである。