抵抗としての生、救済としての死 ――TVアニメ『Angel Beats!』論
TVアニメ『Angel Beats!』(以下『AB』)は、2010年に放送されたオリジナル作品である。小説、漫画、4コマ漫画などの関連作品がつくられ、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門の審査委員会推薦作品に選ばれている。その主題は、原作・脚本を務めた麻枝准によれば人生賛歌、ときに理不尽でも尊いものとして人生を肯定することにあるらしい。では、本作は人生をどのように捉えた上で肯定しているのか。先に結論を言っておけば、それは「生きること」と「死ぬこと」、あるいは「抵抗すること」と「救済されること」の葛藤ないし相克である。
まず物語を押さえておこう。主人公の音無弓弦が死後の世界「天上学園」で仲村ゆりと出会い、彼女の組織「死んだ世界戦線」と「天使」こと立華かなでとの戦いに巻き込まれる。死後の世界「天上学園」とは、青春に未練を残して逝った者たちをエキストラたちとの学生生活に溶け込ませ、その魂を消滅・転生させていく施設であるらしい。仲村ゆりは、指導者として「理不尽な人生を強いた神への復讐」を目的にして転生を拒み続ける少女であり、立華かなでは、たった1人で「彼らが、彼らの物語を終えられるように」との願いから転生に誘い続ける少女である……。
本作は、仲村ゆりに代表される「抵抗としての生」と立花かなでに代表される「救済としての死」、2つの相反する欲動に引き裂かれたまま絶えず不協和音を奏でているように思われる。このことについて、順を追って説明していきたい。
まず仲村ゆりは、強盗に弟妹を殺された過去が原因で死後に天上学園へ送られ、「悪いことなんかしていないのに」「こんな人生は許せない」という思いから、理不尽な運命を強いた神への反抗を企てている少女だった。ところが『AB』は、彼女の目的意識にとってきわめて残酷な状況を強いている――この世界に神のごとき超越者はおらず、敵視していた立華かなでも神の使徒(天使)ではなく自分と同じ死者でしかなかった。第2の敵として現れた直井文人は、天上学園を「不幸な人生を送った人間から神を決める世界」と捉えていたが、むろんそのような道標もない。仲村ゆりは曖昧な絶対的存在(神)に抵抗することで死後の世界を生き長らえているが、そうした抵抗は常に抽象的であり、作中での居場所を失っていくのである。
他方で立華かなでは、心臓を提供してくれた何者かに礼を言えなかった悔恨が原因で天上学園へ送られ、「死者たちが満足して消えられるように」という思いから生徒会長まで務め、そのために「天使」と誤解されてきた少女だった。しかしながら『AB』は、彼女の目的意識にとってかなり好都合な事件を起こしていく――催眠術によって偽りの消滅・転生を与えうる直井文人、死者を魂なきエキストラ化する謎の影。それらの全てが元々の転生・消滅を肯定させる契機であり、仲村ゆりもまた、影を操るエキストラとの対話において自身が神になる選択肢を棄ててしまう。立華かなでは明確な相対的存在(死者)を救済することで死後の世界を死なしめていく……そうした救済は常に具体的であり、作中での居場所を得ていくのである。
岩沢まさみ、ユイ、その他大勢の人物が未練を棄てて死後の世界から去っていくなかで、仲村ゆりもまた立華かなでに「もっと早く理解していれば」「戦わずにすぐに親友になれた」と告げて消えていく。しかし、抽象的な敵に対する抵抗としての生を天上学園にもたらそうとした前者と、具体的な味方に対する救済としての死を天上学園にもたらそうとした後者は、原理的には決して相容れない。もっとはっきり言えば、満足して消滅・転生するよりも不満足なまま死後の世界に留まる方がマシだ、と考える人物が現れないのも不自然なのだ。いずれにせよ、我々は無際限の未練(「~したかった」「~したい」という欲望ないし欲求)に苛まれながら生きていくのであり、完全に満足して根拠なき転生に同意することは難しいだろうから。
おそらく、本作は生の欲動と死の欲動をめぐる原理上の解決を果たさないまま登場人物だけを和解させており、そのことが最後まで物語に不協和音を起こしている――この軋みを引き受けてしまった者こそ、主人公の音無弓弦に他ならない。
音無弓弦は記憶を失ったまま天上学園に送られ、前半は済し崩し的に仲村ゆりたちの組織に付き合わされるが、記憶を甦らせると自分が既に救われていたことを知り、立華かなでの行動に協力していく。にもかかわらず『AB』の終盤、彼はいきなり、密かに愛していた立華かなでと2人きりで死後の世界に残ろうと提案する――これまでの目的意識をかなぐり捨てて、音無は彼女の消滅・転生を受け入れられず泣き叫ぶのである。それはあたかも、救済としての死(立華かなで)に回収され抑圧されてしまった抵抗としての生(仲村ゆり)が、再び息を吹き返したかのようだ。筆者には、急な展開の連続の果てに待っていたこの最も唐突なエピソードこそ、実は本作においてただひとつ自然なものだったように感じられる。
原作・脚本を務めた麻枝准は『AB』の主題を人生賛歌と称したが、たしかに人生というものは、生と死の徹底的な断絶にうろたえながらエゴイスティックに愛を欲するものではなかったか。言ってしまえば惨めで情けないその姿、悲劇的というよりは喜劇的と形容すべきその姿……それを出来る限り美しく描き出そうとした一瞬において、本作は「人生賛歌」足り得ているのである。