鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

美しい飛翔の夢想、醜い戦争の現実 ――宮崎駿『風立ちぬ』について

 宮崎駿『風立ちぬ』が描く「飛行機」の表象は、美しい夢想と醜い現実の二律背反に置かれている。たとえば、カプローニとカストルプの対比を見てみよう。カプローニは世界的に著名な飛行機製作者のイタリア人であり、しばしば堀越二郎の夢のなかに現れる。そこで彼が語るのは、飛行機がもたらす美しい飛翔の夢想である。他方のカストルプは軽井沢に滞在するドイツ人であり、たまたま同宿の堀越二郎と里見菜穂子が交際するにあたって立会人となった。軽井沢で彼が語るのは、その飛行機がもたらすだろう醜い戦争の現実である。本作における飛行機というモチーフは、カプローニ的夢想(美しい飛翔)とカストルプ的現実(醜い戦争)に引き裂かれているのだ。

 この分裂を引き受けるのが、本作の主人公・堀越二郎である。子供の頃から飛行機に憧れていた彼は、大学で航空工学を学びドイツへ留学したのち、航空技術者として数々の戦闘機を設計することとなる。説明的な台詞や直接的な演技が少ないために想像で補うしかないが、その立場は、否応なく彼に美しい夢想と醜い現実の矛盾を突き付けるものだったろう。もちろん、彼が上司の黒川や同僚の本庄のような人間であれば、このような問題は起こらなかったに違いない。凡才は夢想と現実の狭間で半端に狼狽えていればよいし、秀才は夢想と現実の双方を器用に使い分けていけばよいからだ。しかし二郎は凡才でもなく秀才でもなく、どうやら天才だったらしいのである。

 この苦悩は、原作者であり脚本・監督である宮崎駿自身にも当てはまるように思われる。プロデューサの鈴木敏夫は、戦争反対を主張しながら戦闘機や戦艦を愛する宮崎のアンビバレンスに対して「矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべき」と映画化を促している。そして当の宮崎自身は、企画書で「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」と述べているのだ。糾弾できないが鼓舞もできない、かといって生温い擁護もできない――ここには本作を語る言葉の全てがある。

 この問題の解決法は2つある。ひとつ目は美しい飛翔の夢想と醜い戦争の現実の乖離を耐え抜くことであり、ふたつ目は、これら夢想と現実を統合してしまうことである。そしてそれは戦争や死そのものに美しさを覚える感性、すなわち結核によって死に瀕する里見菜穂子を「綺麗だ」と思える感性によって可能となる。

 宮崎駿『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎が選んだのは、後者の道だったと言える。象徴的なものとして、3つのシーンを検証してみよう。第1のシーン……軽井沢で紙飛行機を飛ばす彼の下方にはカストルプが、上方には里見菜穂子が立っている。ここで彼は、夢想と現実の乖離に耐え抜く想像力(カプローニとカストルプの対比)と、夢想と現実を統合してしまう想像力(菜穂子による死と美の共存)の中空に投げ出されている。もちろんカストルプ的現実の手にかかれば、紙飛行機は押し潰されてしまう(自分の夢に忠実にまっすぐ進むことができない)。そこで第2のシーン……黒川家で戦闘機を設計する彼は、左手で菜穂子に触れながら右手で計算尺を操ることになる。ここで二郎は、モチーフの問題をカプローニ+カストルプの側ではなく菜穂子の側で解消することを決断しているわけだ。だから第3のシーン……散ったゼロ戦と夢の中で再会する彼の前には、ゼロ戦と菜穂子のイメージが溶け合っているのである。その上で二郎自身は、あの「生きねば」という言葉とともにカプローニ的夢想の側へと赴いていくだろう(自分の夢に忠実にまっすぐ進むことができる)。私には、このような態度を「エゴイズム」等と批判しても仕方がないように思われる。そうした非難は黒川のような人間にも言えることでしかなく、また結局のところ、そんな黒川も二郎と同じ職業に就くエゴイストなのだから。ただ単に、凡才のエゴは天才のエゴに遠く及ばないだけのことである。

 注意しておこう。本作を「糾弾」の映画だとか「鼓舞」の映画だとか捉えて肯定したり否定したりするのは的外れだし、ましてやモラリスティックな「擁護」を見て取るのはお門違いに過ぎないことを。宮崎駿が主人公の堀越二郎に仮託して描いているのは、もっと恐ろしく美しい「何か」であり、そのことを認識して、初めて私たちは『風立ちぬ』を賞賛や批判の対象にすることが叶うだろう。そしてその賞賛や批判は、黒川的な狼狽や本庄的な割り切りではなく、二郎の妹・加代がしてみせたような涙や怒りのごときものになるはずだ。病身として死の側に立つ菜穂子とは対照的に医者として生の側に立つ者、幼い頃に二郎の作業を邪魔していた者こそ彼女ではなかったか?