スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』について ――現代フェミニズムの地平
スピヴァクがジャック・デリダ『グラマトロジーについて』の英訳序文を書くことで受け取った最大のものは、彼の「抹消の下に置く」身振りだった。その身振りは『文化としての他者』において、言説が孕む暴力性と偏向性を暴き立てるギリギリの綱渡りを可能にしている。このような試みは、どのような理論的達成に至ったのか。我々は『サバルタンは語ることができるか』(1988)を読むことで、それを知ることができるだろう。評論集『文化としての他者』から、約1年後のことである(英訳序文のデリダ論からは、早や12年の歳月が経っている)。
そもそもサバルタンとは、中心的な知と権力から政治的ないし経済的に抑圧されている人々のことである。そしてそれゆえ、なんら自身について語る術を持たない階級のことでもあるだろう。西洋の知的権威も東洋の知的権威も、サバルタンを周縁的なものへ追いやり疎外する形で構成されてきた。たとえばインドには寡婦殉死の慣習、すなわち夫の死体とともに妻が焼身自殺を果たすヒンドゥー社会の慣行がある。そこで寡婦は実質、西洋の知的権威からも東洋の知的権威からも黙殺されているのである。あるときは他者に代弁されることによって、あるときは拝聴されることによって、彼女たちの声は己を押しつぶすような知と権力に組み込まれていく。
他者を代弁(代理=表象)することの暴力は誰でも知っているが、拝聴することの暴力に思い至る者はわずかである。たとえばフーコーとドゥルーズは、大衆の声を代弁(代理=表象)するような知識人の在り方を否定したが、大衆の声を拝聴するような知識人の在り方はむしろ肯定してしまった。しかし、知識人もまた政治的ないし経済的な利害関係に巻き込まれているのであり、拝聴しようにも、彼らの知と権力はサバルタンに対して暴力的に働きかけてしまうだろう。フーコーとドゥルーズは、このような自分たちの主体性および実践性にまるで無自覚である。それを踏まえれば、あくまで下部構造的なものを重視したマルクス主義の意義は全く衰えていない。
文化解釈における暴力性の軽視は、フーコーやドゥルーズの哲学的な問題に深く関わっている。あらかじめ簡単にまとめておくなら、彼らは「法=主権」「主体」のような大域的かつ単数的なモデルを批判し、局所的かつ複数的な「権力」「欲望」のモデルによって近代社会と人間を考えようとしていた。両者に共通しているのは、なにか多様で複雑なものを単純素朴に解釈してしまう(代理=表象する)システムへの否定的な見解だろう。それは別にいい。しかし彼らは「権力」「欲望」という単純素朴な表現に至ることで、「法=主権」「主体」のような大域性・単数性を再導入しているかのようだ。たとえばその表現からは、西洋と東洋の質的差異、男性と女性の質的差異などが完全に見落とされている。かくして、代理=表象のシステムは再強化・再生産されてしまうのである。
フーコーやドゥルーズの哲学でさえ陥ってしまった代理=表象の罠。それを乗り越えるために必要とされるのは、デリダの脱構築に他ならない。
その声を代弁できず拝聴することもできないサバルタンと、いかに倫理的な関係を取り結ぶか。デリダ=スピヴァクが提案するのは、知識人であるところの自分自身が語りかけること、そしてそのとき、これまで築き上げてきた知や権力を忘れ去る(unlearn)ことである。なにも難しい話ではない。それは、サバルタンを抑圧し疎外するような知的権威に彼らを取り込むのではなく、逆に自分たちが相手の文脈に巻き込まれてみることを意味する。たしかに我々は、単純素朴な「法=主権」「主体」といったモデルが近代社会において不適切であることを知っている。しかし、他者と向き合うにあたって己の主体性・実践性を曝け出す際には、我々はそのことを忘れ去らなければならない。かつてニーチェが己の認識を忘却してみせたように。
デリダ=スピヴァクが掲げる忘却(unlearning)の重要性こそ、あの「抹消の下に置く」身振りの理論的達成点として読むべきもののように思われる。デリダと他の現代思想家たちを隔てていたのは、まさに、自身の思想を「抹消の下に置く」のかどうかに掛かっていた。フーコーやドゥルーズの哲学が「権力」「欲望」といった表現に至ることで代理=表象を甦らせてしまうのに対して、デリダの脱構築の脱構築の脱構築……はどのような大域的・単数的表現にも至ることがないだろう。彼によって代理=表象のシステムは解体と保存を繰り返しながら、常に揺さぶられ続ける。この点にこそ、『サバルタンは語ることができるか』の重要性があるのだ。