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鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

接続と切断、その中間 ――千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を読んだ

 千葉雅也は『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)のなかで、ジル・ドゥルーズを「接続的ドゥルーズ」と「切断的ドゥルーズ」に分けている。フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などが受容されるにあたって、前者に対して後者は、すなわち非意味的切断の原理はあまり注目されてこなかったようだ。しかし、私たちが「器官なき身体」を接続中毒の世界から守りたければ(=生成変化を乱したくなければ)、むしろ切断もしなければならない(=動きすぎてはいけない)だろう。本書は、このことを主張するためにドゥルーズ哲学の幼年期へと遡る方法を採用し、最終的にセルフエンジョイメント self-enjoyment の謳歌を見出そうとするものである。

 ドゥルーズ&ガタリが語った「生成変化」の原理は、荘子が述べたような「物化」や万物斉同の原理とは異なり、区別のある匿名性を微粒子の関係になぞらえながら保つものである。出来事と身体をパフォーム perform する彼らの哲学は、スピノザの心身並行論に同意して薬毒分析などに向かいつつ、スピノザ主義が関係の内在性(=接続)を重んじているのに対して関係の外在性(=切断)をも唱えているのだ。この「関係の外在性」こそ、ドゥルーズベルクソン主義(『ベルクソンの哲学』)に対するヒューム主義(『経験論と主体性』)、要するにドゥルーズ哲学の少年期に対して幼年期に当たる部分である。ドゥルーズが差異=分離の原理について書いた箇所を、千葉は恩寵(=接続)というよりも自由(=切断)として解釈する。クァンタン・メイヤスーやグレアム・ハーマンといった現代の哲学者たちと比較されながら、ドゥルーズは事情のもとに因果性の部分化を図り、その結果=効果としての存在を論じる哲学者という像を結ぶ。

 以上のような読解は、ドゥルーズの哲学を「存在論的ファシズム」から、すなわち生気論的な全体主義(《宇宙》)からも構造主義的な全体主義(《欠如》)からも遠ざけるために必要な手続きと言えよう。もしドゥルーズの哲学が潜在性の逆説的な超越化として読まれたり、代理=表象不可能性の逆説的な超越論化として読まれたりするならば、彼はネグリやジジェクと区別がつかなくなってしまう。ドゥルーズジャック・ラカンではなくフェリックス・ガタリに引き合わせ、否定神学批判を乗り越えて複数的な外部性を獲得するためには、変態する個体化(=接続と切断の中間)を目指さなければならないのである。まさしく「個体化」の要請は『差異と反復』において分離の問題として描かれ、私たちを関係主義ではなく無関係の哲学へ志向させる。それは言わばやる気のない他者として超越論的な愚かさを生きること、イロニーからユーモアへと折り返し、両義的な現働性とともに強度=内包的な倫理を実践することになる。

 千葉は『意味の論理学』における「器官なき身体」の位置づけを、肛門的なエス(部分対象:分子状の散乱)と性器的な超自我(《欠如》、良き対象、象徴的ファルス:ひとつの穴の輪郭)の間、つまるところ尿道的な自我(個体の輪郭)に求めている。言い換えれば、条件づけを通した高所:神経症(命題の真偽……現働的な同一性)を批判するための器官なき身体は、結果=効果を通した表面:倒錯(非物体:意味=出来事……潜在的な差異)と分裂症化を通した深層:精神病(物体:意味の崩壊)の間で葛藤しながら、表面の無‐意味としての《裂け目》と深層の下‐意味としての多孔性・多傷性に引き裂かれ、接続と切断そして再接続……を繰り返しているわけだ。対象aを機械状化して60年代ラカンを継承‐変形すると同時に、《欠如》をめぐる欲望のエコノミーを排除して50年代ラカンから離反したドゥルーズ&ガタリの哲学は、こうした視座から捉え直さなければならないだろう。

 

 もともと本書は博士論文だったが、改稿による「生成変化」を経たからか、学術的な書法からは少なからず逸脱した個体になっている。学術と並行した文学的実験を奨励する松浦寿輝に後押しされ、千葉雅也は「ドゥルーズ論であってドゥルーズ論でない半端な書き物であること」「中途半端であることについて徹底的に思考するという矛盾」を方法的に引き受け追求したらしい。なるほど『動きすぎてはいけない』は、その主張する内容(=非意味的切断)と論述の形式(=「或る有限な、僕ならばこう書くしかない、こう話すしかないのだ、という決定の無根拠なる勇気に耐えるということ」)が文学的に重ね合わせられているかのようである。軽妙と重厚の間を縫う彼の独特な文体は、たしかに「ドゥルーズと生成変化の哲学」を体現している(まさにドゥルーズが好んだように、彼はドゥルーズ「と」生成変化について語っているのだ)。

 私たちの世界は「もっと動けばもっとよくなる」「もっともっとつながりたい」という思い込みに囚われ、仕舞には「動きすぎ、関係しすぎて、ついには身動きがとれなくなってしまった」という。そのような世界で、いかに生きればいいのか……千葉雅也『動きすぎてはいけない』は、こうした多くの読み手が感じているだろう問いに対して、真摯な答えを導き出してくれるものである。