鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

社会論としての前半部、文学論としての後半部 ――村上裕一『ネトウヨ化する日本』の整理と疑問

 村上裕一『ネトウヨ化する日本』(2014)は、ネトウヨの本質を「ネット社会の暴走」と「セカイ系決断主義」に求めている。ネトウヨ現象は、ネット時代の「新中間大衆=フロート」が互いに空気を読み合いすぎること、すなわち互いに共感しすぎることによって引き起こされるのだ。そしてそこには、諫山創進撃の巨人』に代表されるセカイ系決断主義が関わっているという。

 最初に、ネット社会の暴走について確認しておこう。

村上裕一によれば、ネトウヨの来歴とインターネットの透明化は密接な繋がりを有している。まず正体不明であるネトウヨの来歴は、アングラ的出自を持ちネトウヨ的事件と関わる2ちゃんねるに求められている。2ちゃんねるニコニコ動画を生み、ニコニコ動画の政治タグが在特会を生むことによって、ネトウヨは政治化しフロートは顕在化したというわけだ。他方でインターネットの透明化は、情報媒体の身体化と認知限界の外部化に求められている。ネットを巡る私たちのメディアリテラシーは変容し、共感と臨場感をもとに情報認識を行なうような共感主義的リアリズムに支配され、イロニー(ネタ化)とヒューモア(ベタ化)に統治されているのだ。

 コミュニケーション性や臨場感は、政治的代表システムや文学的表象システムとしての拡張現実に支えられている。大衆を代表する者が天皇から代議士へ移行し、代議士からマスメディアへと移行していくなかで、ネトウヨはマスメディアの(勝手な??)代表者面に反発している。2ちゃんねるとそのニュー速VIP版が影響力を増加させれば、劣悪なソース原理主義と貧相なまとめサイトバイアスによって、情報弱者化したネットユーザーは怒りを爆発させていくだろう。そしてそこでは、中国や韓国といったアジア諸国に対する過去の歴史的事実はほとんど無視され、現在の瑣末な事件ばかりが取り沙汰されていくことになるのだ。

 ここで注目すべきは、ネトウヨ的な政治性が2ちゃんねるのなかで発達してきたように、オタク的な文学性もまた2ちゃんねるのなかで興隆してきたということである。小林よしのり『戦争論』や「世界史コンテンツ」が代表的だが、オタク的な文学性とインターネットの関係はもう少し根本的だろう。前著『ゴーストの条件』では、キャラクターやアイドルが固有名を基軸にしていること、そしてキャラクターがニコニコ動画ウィキペディアなどのネット環境によって、言わばN次創作的に自己増殖する「ゴースト」になったことが唱えられていた。村上裕一がネトウヨとオタクの政治的親和性を口にするのは、上記のような事情があるからである。

 では、セカイ系決断主義とはどのようなものか?

 本書によれば、在特会などのネトウヨ現象を乗り越えるものが10年代の想像力であるという。在特会は勢力を拡大するや否や衰退し、衰退すると共に先鋭化して批判に晒されている。そうした在特会員のロマン主義的(=現実逃避的?)な陶酔は、橋川文三が『日本浪漫派批判序説』で分析した限りでの日本浪漫派の諸問題、すなわちイロニーとセカイ系決断主義(=視野狭窄と反社会性?)に起源を持ち、いわゆるディストピア志向とノスタルジー嗜好に結びついているらしい。そしてそこでは、インターネットそのものがひとつのイロニー駆動装置であるとされる一方、イロニーに抵抗するためのヒューモアが評価されることになる。そして、10年代の想像力としては『中二病でも恋がしたい!』や『カゲロウプロジェクト』が挙げられていく。

 しかし、これは前半の議論からすれば少しおかしな話ではないだろうか。ネトウヨ現象の本質である共感主義的リアリズムは、そもそもイロニーとヒューモアによって支えられていたからである。さらに街と物語の祝福だのループ外や物語外の夢想だのが10年代的だと言われても、むしろそのような態度こそがロマン主義的な陶酔ではないかと訝みたくなってしまう。もちろん、村上裕一が「親が子を救う共感的共同体」と「子が親を救う共感的共同体」を分け、そこにイロニーとヒューモアの対比を見出したいのであろうことなら察せられる。だが共同体が互酬制である以上、そもそも親が子を救うことと子が親を救うことは基本的に同じだと言うほかない。

 要するに私は『ネトウヨ化する日本』の結論部に「引いてしまった」わけだが、これは前著『ゴーストの条件』の結論部に「引いてしまった」ことと同じである。そこでは、ゴーストとしてのキャラクターと人間の区別を唯物論的に乗り越えるヒューモアが、水子の倫理(!?)と名指され称揚さられていた。しかし村上の使うヒューモアとは、もともと柄谷行人が後期の夏目漱石論において示そうとしたものであり、それを東浩紀は初期の「写生文的認識と恋愛」において批判したのではないか。東浩紀は柄谷的ヒューモアから後退してローティ的イロニーに向かったのではなく、柄谷的ヒューモアを論駁したあとでローティ的イロニーを再吟味したのである。

 村上裕一が批評の結論部で「ヒューモア」を多用するとき、そこで彼の東・柄谷評価はどのようなものになっているのだろうか。本書と前著の結論部を読み直しながら考えつつ、私は私なりの「ネトウヨ」論を構築する必要性に駆られている。

 

 なお付け加えておけば、私にとってセカイ系だの決断主義だの空気系だのといった概念はいささか曖昧すぎ、もはや真面目な議論で使うには無意味な言葉になってしまったように感じられる。