鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

批評家は進歩したのか? ――大澤聡『批評メディア論』について

 大澤聡『批評メディア論』はサブタイトルが示すとおり、戦前期日本の論壇と文壇について論じたものである。しかしそれは単に日本の戦前期を文学史的に整理するのではなく、現代の批評が抱えている諸問題の起源を、批評が成立した戦前期に遡行することで見出そうとするものだと言える。

 

 最初に確認すべきは、おおよそ個々の論壇時評こそが論壇全体の権力を発生させてきたことであり、あるいは個々の文芸時評こそが文壇全体の生成させてきたことだと言えよう。たとえば前者については、総合誌の論壇時評や学芸欄の論壇時評それ自体が相互批評の交叉点として「論壇」を構築してきたし……また後者については、批評家たち自身による批評無用論争それ自体が批評の存在感を増長させ、想定されるべき読者共同体としての「文壇」を仮構してきたのだと要約できる。
 論壇のなかで執筆された個々のレジメが、どこからどこまでを論壇とするのか事後的に決定し、批評メディアとしての論壇を自分自身で基礎付けていく。そして文壇は紙面を埋めるための「重大な」問題を発見すべく奔走し、論破すべき仮想敵を仄めかし暗示しながら強引に仕立て上げると、それを論文で叩きのめすことで憂さ晴らしの消費を終えるわけだ。かかる文芸時評の手続きを喜ぶ読者が成立しさえすれば、そこに職業としての批評家もまた存続してしまうだろう。
 ここで重要なのは、おそらく以上のように創造された「論壇」「文壇」が2つの欲望に引き裂かれていたことである。すなわち、先行批評の捏造してきた論壇と文壇の内部に留まろうとするだけの「人物批評」の欲望と、そして論壇と文壇の外部に出るべくして未知の批評に賭けようとする「匿名批評」の欲望と。人物批評においては、あたかも普通選挙時代の比喩であるかのように有名批評家/無名批評家が区別され、有名批評家たちの人格が記号化(キャラクター化)されていったのに対し……匿名批評においては、社会的顕名/非社会的匿名が区別され、匿名批評家たちは例外圏において読者にカタルシスを与えたのである。ここには有名/無名の二項対立と、それを無効化してしまう顕名/無名の二分法が図式的に与えられている。
 人物批評の利点は、ひとりの人物を通じて複数の領域を横断的に論じることができることであるが、それ以上に大衆ウケがいいことである。大衆は批評家の固有名を消費し、彼らの言葉ではなく彼らの表象を享楽し、有名批評家と無名批評家のあいだに残酷なまでの切断線を引こうとする。そうしてそれは文壇における現実的な権力関係にまで影響を及ぼすのだ。たとえば座談会では単なる合評ではなくプロレス的な討議が好まれるようになり、批評家たちは劇的なロールプレイを演じさせられると同時に、お互いの親密さを擬態することを余儀なくされていくだろう。彼らはまるで合言葉のように造語群を氾濫させ、批評メディアとしての論壇を一枚岩のものにしていくわけだ。この文壇政治は『新潮』『文学界』などの雑誌で見られるが、いわゆる「行動主義論争」のなかでこそ最も露骨に顕在している。他方で匿名批評は、上に述べたスターシステムの外部に出ようとするものである。それは論壇において大した権威を持たない無名批評家が、有名批評家に対して精神的・経済的に自立するための打開策である。彼らは学芸欄/文芸欄という匿名圏に逃げ込むことで責任の所在を曖昧にし、爽快な口調で誰彼構わずボロクソに論じ倒すことで世論を味方につけるのだ。

 

 おそらく本書が肯定的に注目しているのは人物批評ではなく匿名批評である。なぜなら匿名批評こそが、現在批評が置かれていた文学環境の状況を暴露し、そして批評を可能にしてきた編集メディアの実情を白日のもとに晒すからだ。それは批評がひとつの物質として我々の社会に存在しているという事実、そして言論がひとつの商品として市場に流通しているという現実である。円本のもとで革命的な出版大衆化が起きたところに、今日の私たちが読みまた書く批評の舞台は成立している……あるいは過去の批評家≒編集者たちの涙ぐましいまでの努力が、アカデミズムとは区別されたジャーナリズムの領域を今なお形成している。そして現代の論壇・文壇を(プロアマ問わず)外観してみれば、私たちの風景は戦前期の日本から何ら変化するところはない
 そのような批評の境界条件が壊乱し地殻変動を起こすことはありうるのか。大澤聡氏は過去に書かれた無名批評家そして匿名批評家のテクストに、来るべきその契機を予見しているのかもしれない。ここには批評史をめぐる新しい全体像を提示する気配、そして新しい批評の形式を模索する気概が現れているように思われる。