鳥籠ノ砂

籠原スナヲのブログ。本、映画、音楽の感想や考えたことなどをつらつらと。たまに告知もします。

批評とは何か? ――エドワード・サイード『知識人とは何か』『人文学と批評の使命』について

 エドワード・W・サイードは『知識人とは何か』(1994)と『人文学と批評の使命――デモクラシーのために』(2004)のなかで次のように問うている。知識人、あるいは人文学者や批評家とはどのような存在であり、彼らは民主主義においてどのような使命を背負っているのか。すなわち、知識人はどのような領域を代表(代理=表象)しなければならないのか、人文学者や批評家が代表(代理=表象)しうる圏域はどこからどこまでなのか。

 サイードにとって、知識人は国家と伝統から離脱した存在でなければならない。すなわち知識人は、なんらかの国家や伝統を特権化してはならないということだ。彼らは故郷としての国家を喪失した者になり、伝統に対して周辺的な存在になる。要するに彼らは、特定の立場を持たないという立場を保持することになるだろう。サイードは、こうした知識人の行為を知的亡命と呼んでいる。柄谷行人ならば、それをトランスクリティークと名指すかもしれない。

 それゆえ知識人は、専門家であるよりもむしろアマチュアである必要がある。つまるところ、知識人はひとつの専門知に閉じ込もってはならないということだ。往々にして専門家は、その固定的な在り方によって国家や伝統に依存してしまう。国家や伝統の権力に絡め取られれば、そこで真実を語ることは難しくなるだろう。アマチュアとしての知識人は、その流動的な在り方によって国家や伝統を離脱する。国家や伝統の権力を振り払えば、そこで真実を語ることは容易になるだろう。

 しかしアマチュアとしての知識人は、国家や伝統や専門家に対して「超越的」であるわけではない。むしろ彼らは超越性を拒絶することによって、諸国家や諸伝統そして諸専門知を「横断的」に移動することができるのである。そしてそれは、常に失敗してきた超越性への試みを退ける数少ない方法なのだ。

 

 サイードにとって、人文研究と実践の基盤は絶えず変化し続けている。国家や伝統の経済的・政治的状況が絶えず変化し続けているからだ。ここでサイードが提唱するのは、人文研究が文献学に回帰することになるだろう。まさに文献学とは、国家や伝統の変化そのものを相対化するような方法である。たとえばエーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』はその好例と言えよう。そしてそのような方法が、作家と知識人に彼らの公的役割を示唆しうるのである。

 その公的役割とは、デモクラシーすなわち民主主義に対する貢献である。ここで言う民主主義とは、なんらかの特権化された立場を意味するのではない。むしろ私たちは、あらゆる立場を特権化・超越化しない態度を民主主義と呼ぶ。この実現不可能に見える夢こそ、我々に知的亡命を促す「超越論的動機」である。

梯子としての哲学 ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について

 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』は「語りうるものについては明晰に語りうるし、語りえぬものについては沈黙しなければならない」と述べている。これは思考可能なものと思考不可能なもの、というより表現可能な思考と表現不可能な思考の間に境界線を引いた上で、前者については明晰に語ると同時に後者については沈黙する営みである。そこで確認すべきは、言語を世界の像として捉えるウィトゲンシュタインの思考である。

 

 ウィトゲンシュタインにとっての世界とは事実の総体であり、事実とは成立している事態のことである。これは、事態には成立しているものもあれば成立していないものもあるということだ。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいた」という事態は、成立している(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば成立していない(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある。このうち成立している事態、すなわち事実の総体が世界と呼ばれることになるだろう。

 一方でウィトゲンシュタインにとっての思考とは事実の論理的図像であり、かつ有意義な命題のことである。そして、有意義な命題とは真と偽のどちらにもなりうるような命題である。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいた」という命題は真になる(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば偽になる(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある。こうした真と偽のどちらにもなりうる命題、すなわち有意義な命題は事実の論理的図像と名指されるだろう。ここで重要なのは、有意義な命題は事実と何らかの関係を持っているということなのだ。

 かように思考と事実を関係させているもの、それが「論理」である。

 ひるがえって無意義な命題とは真か偽のどちらかにしかなりえない命題、あるいは真と偽のどちらにもなりえない命題である。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいたか、またはいなかった」「彼女は駅前の喫茶店にいたし、いなかった」といった命題は真と偽のどちらかにしかなりえない。そして「彼女は駅前の喫茶店にいるべきではなかった」「駅前の喫茶店にいる彼女は美しかった」といった命題は真と偽のどちらにもなりえない。こうした真か偽のどちらかにしかなりえない命題、あるいは真と偽のどちらにもなりえない命題、すなわち無意義な命題は事実の論理的図像とは名指されないだろう。ここで指摘すべきは、無意義な命題は事実とは何の関係も持っていないということなのだ。

 ウィトゲンシュタインにとって「明晰に語りうるもの」とは有意義な命題のことであり、他方で「沈黙しなければならないもの」とは無意義な命題のことである。これは、彼にとっての表現可能な思考が事実と何らかの関係を持ったものであり、表現不可能な思考が事実とは何の関係も持っていないものであるということだ。おおよそ前者は科学と呼ばれるものになり、後者は哲学と名指されるものになるだろう。たとえば倫理に関する命題(~すべきである)や美学に関する命題(~は美しい)は、それが語られるや否や直ちに無意義となるほかないようなものである。

 このことは、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』自体もまた例外ではない。たとえば「たとえば『彼女は駅前の喫茶店にいた』という事態は、成立している(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば成立していない(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある」という命題は事実とは何の関係も持っておらず、それが語られるや否や直ちに無意義となるほかないようなものである。したがって彼の哲学をひととおり理解する者は、あたかも昇りきった梯子を放り捨てるように彼の哲学を放り捨てるだろう。そして梯子はこれきり必要ない。ウィトゲンシュタインが本書によって全哲学を解決したと考えたのは、以上のような事情によるものである。

社会論としての前半部、文学論としての後半部 ――村上裕一『ネトウヨ化する日本』の整理と疑問

 村上裕一『ネトウヨ化する日本』(2014)は、ネトウヨの本質を「ネット社会の暴走」と「セカイ系決断主義」に求めている。ネトウヨ現象は、ネット時代の「新中間大衆=フロート」が互いに空気を読み合いすぎること、すなわち互いに共感しすぎることによって引き起こされるのだ。そしてそこには、諫山創進撃の巨人』に代表されるセカイ系決断主義が関わっているという。

 最初に、ネット社会の暴走について確認しておこう。

村上裕一によれば、ネトウヨの来歴とインターネットの透明化は密接な繋がりを有している。まず正体不明であるネトウヨの来歴は、アングラ的出自を持ちネトウヨ的事件と関わる2ちゃんねるに求められている。2ちゃんねるニコニコ動画を生み、ニコニコ動画の政治タグが在特会を生むことによって、ネトウヨは政治化しフロートは顕在化したというわけだ。他方でインターネットの透明化は、情報媒体の身体化と認知限界の外部化に求められている。ネットを巡る私たちのメディアリテラシーは変容し、共感と臨場感をもとに情報認識を行なうような共感主義的リアリズムに支配され、イロニー(ネタ化)とヒューモア(ベタ化)に統治されているのだ。

 コミュニケーション性や臨場感は、政治的代表システムや文学的表象システムとしての拡張現実に支えられている。大衆を代表する者が天皇から代議士へ移行し、代議士からマスメディアへと移行していくなかで、ネトウヨはマスメディアの(勝手な??)代表者面に反発している。2ちゃんねるとそのニュー速VIP版が影響力を増加させれば、劣悪なソース原理主義と貧相なまとめサイトバイアスによって、情報弱者化したネットユーザーは怒りを爆発させていくだろう。そしてそこでは、中国や韓国といったアジア諸国に対する過去の歴史的事実はほとんど無視され、現在の瑣末な事件ばかりが取り沙汰されていくことになるのだ。

 ここで注目すべきは、ネトウヨ的な政治性が2ちゃんねるのなかで発達してきたように、オタク的な文学性もまた2ちゃんねるのなかで興隆してきたということである。小林よしのり『戦争論』や「世界史コンテンツ」が代表的だが、オタク的な文学性とインターネットの関係はもう少し根本的だろう。前著『ゴーストの条件』では、キャラクターやアイドルが固有名を基軸にしていること、そしてキャラクターがニコニコ動画ウィキペディアなどのネット環境によって、言わばN次創作的に自己増殖する「ゴースト」になったことが唱えられていた。村上裕一がネトウヨとオタクの政治的親和性を口にするのは、上記のような事情があるからである。

 では、セカイ系決断主義とはどのようなものか?

 本書によれば、在特会などのネトウヨ現象を乗り越えるものが10年代の想像力であるという。在特会は勢力を拡大するや否や衰退し、衰退すると共に先鋭化して批判に晒されている。そうした在特会員のロマン主義的(=現実逃避的?)な陶酔は、橋川文三が『日本浪漫派批判序説』で分析した限りでの日本浪漫派の諸問題、すなわちイロニーとセカイ系決断主義(=視野狭窄と反社会性?)に起源を持ち、いわゆるディストピア志向とノスタルジー嗜好に結びついているらしい。そしてそこでは、インターネットそのものがひとつのイロニー駆動装置であるとされる一方、イロニーに抵抗するためのヒューモアが評価されることになる。そして、10年代の想像力としては『中二病でも恋がしたい!』や『カゲロウプロジェクト』が挙げられていく。

 しかし、これは前半の議論からすれば少しおかしな話ではないだろうか。ネトウヨ現象の本質である共感主義的リアリズムは、そもそもイロニーとヒューモアによって支えられていたからである。さらに街と物語の祝福だのループ外や物語外の夢想だのが10年代的だと言われても、むしろそのような態度こそがロマン主義的な陶酔ではないかと訝みたくなってしまう。もちろん、村上裕一が「親が子を救う共感的共同体」と「子が親を救う共感的共同体」を分け、そこにイロニーとヒューモアの対比を見出したいのであろうことなら察せられる。だが共同体が互酬制である以上、そもそも親が子を救うことと子が親を救うことは基本的に同じだと言うほかない。

 要するに私は『ネトウヨ化する日本』の結論部に「引いてしまった」わけだが、これは前著『ゴーストの条件』の結論部に「引いてしまった」ことと同じである。そこでは、ゴーストとしてのキャラクターと人間の区別を唯物論的に乗り越えるヒューモアが、水子の倫理(!?)と名指され称揚さられていた。しかし村上の使うヒューモアとは、もともと柄谷行人が後期の夏目漱石論において示そうとしたものであり、それを東浩紀は初期の「写生文的認識と恋愛」において批判したのではないか。東浩紀は柄谷的ヒューモアから後退してローティ的イロニーに向かったのではなく、柄谷的ヒューモアを論駁したあとでローティ的イロニーを再吟味したのである。

 村上裕一が批評の結論部で「ヒューモア」を多用するとき、そこで彼の東・柄谷評価はどのようなものになっているのだろうか。本書と前著の結論部を読み直しながら考えつつ、私は私なりの「ネトウヨ」論を構築する必要性に駆られている。

 

 なお付け加えておけば、私にとってセカイ系だの決断主義だの空気系だのといった概念はいささか曖昧すぎ、もはや真面目な議論で使うには無意味な言葉になってしまったように感じられる。

ヘーゲル的ノマドロジー、カント的ノマドロジー ――柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』について

 柄谷行人『遊動論 ――柳田国男と山人』(2014)は、私たちの遊動性(=ノマドロジー)を大きく二種類に区別している。ひとつ目は定住革命以後の遊牧民のそれであり、ふたつ目は定住革命以前の遊動的狩猟採集民のそれである。柄谷行人によれば、前者は80年代の日本型ポストモダニストが唱えていた遊動性、後者は戦前の柳田国男が唱えていた遊動性になるだろう。本書において重要なのは、遊牧民ノマドロジーが交換様式AとBとCに回収されてしまうのに対して、遊動的狩猟採集民のノマドロジーが交換様式Dに当てはまるということである。

初めに、柄谷行人の交換様式論を確認しておこう。交換様式A「互酬」はミニ世界システムの段階において支配的な交換様式であり、近代世界システムにおけるネーションとして友愛の理念を志向するものである。交換様式B「略取=再分配」は世界=帝国の段階において支配的な交換様式であり、近代世界システムにおけるステートとして平等の理念を志向するものである。交換様式C「商品交換」は近代世界システム(世界=経済)の段階において支配的な交換様式であり、近代世界システムにおける資本として自由の理念を志向するものである。

交換様式D「X」は、交換様式ABCいずれにも当てはまらない交換様式である。それはミニ世界システムの段階以前に支配的だった交換様式であり、来るべき世界共和国の段階において支配的になるだろう交換様式である。また交換様式Dは世界=帝国の段階において普遍宗教として現れ、近代世界システムの段階においてアソシエーションとして現れるものである。カント哲学マルクス哲学の世界史観は、共に交換様式のAとBとCをDによって揚棄することを目指すものであり、それゆえDを考慮しないヘーゲル主義の世界史観を批判しうるものになろう。

 遊牧民が結局のところヘーゲル主義へと包摂されるのに対し、遊動的狩猟採集民はカント主義とマルクス主義へ繋がっていく。

 こうした区別が必要なのは、戦後の柳田国男が置かれていた状況を正しく捉えるためである。およそ一般的には、初期の柳田によって追究されたのがマイノリティの「山人」であるのに対して、戦中の柳田によって追究されたのはマジョリティの「常民」であるとされている。柳田民俗学が影響力を失っていったのは、戦後の日本において従来の農民(=常民)が消滅するとともに、新しくマイノリティ(=非常民)を追究する論客が台頭したためである。しかし柄谷行人に言わせれば、彼らが追究した非常民は遊牧民ノマドロジーに属すものであり、柳田が追究した山人こそが遊動的狩猟採集民のノマドロジーに属すのである。

 ここで注意すべきは、山人の概念が持っている非経験的な性格である。交換様式AとBとCを強固に結びつける近代以後の社会においては、交換様式Dを体現した近代以前の山人を実証することはできない。それゆえ柳田国男は山人の概念を超越論的に追究するため、農政学によるアソシエーションを探究するとともに、焼畑狩猟民の社会を通じて遊動的狩猟採集民の社会を察知しようとしていた。山人の概念は、現在を批判するための超越論的な仮象なのだ。柳田国男は失われた過去の社会様式を供養するための民俗学を行なうと同時に、そうした民俗学のなかで己の実験的な史学を鍛えていったことになるだろう。柳田が近代以前の山人を通じて近代の公民を捉え返したことは、失われた先住民として本土の山人たちと沖縄の島人たちを共に想定し、失われた信仰としてオオカミや「小さき者」を想定したことに現れている。前者は近代国民国家植民地主義を吟味するものであり、後者は近代国民国家人間中心主義成人中心主義を吟味するものである。

 柳田国男は山人の追究から常民の追究へと移行したのではなく、山人の概念を通じて公民の在るべき姿を模索していたと言えよう。それは単にマイノリティを知ることではなく、マイノリティを通じて社会の在るべき姿を知ることなのである

 

 

 柄谷行人『遊動論 ――柳田国男と山人』は『哲学の起源』と同じく、代表作『世界史の構造』において唱えられた交換様式Dを具体的に探究する、そのような発展的書物として読むことができる。しかしそれだけではなく、柄谷行人にとっての柳田国男マルクス夏目漱石などに並行する、80年代において既に論じられていた思想家であることも忘れてはならない。私たちは『柳田国男論』(2013)と本書を同時に読むことによって、柄谷批評の意外なまでの一貫性を発見するだろう。その意味でもまた、この『遊動論』は重要な一冊である。

 

過去記事

『哲学の起源』について: http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/03/16/071427

柳田国男論』について: http://sunakago.hateblo.jp/entry/2013/12/21/054812

アメリカのアーキテクチャ、日本のアーキテクチャ? ――濱野智史『アーキテクチャの生態系』について

 濱野智史アーキテクチャの生態系 ――情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008)は、アーキテクチャ(≒情報環境)の設計を生態系になぞらえて著述していく書物である。本書は時系列に沿いながら、インターネットという巨大なプラットフォーム(≒生態環境)を先行世代として、様々な後続世代が発生していく様子を記述していくだろう。ある後続世代は先行世代に組み込まれる「島型」として、ある後続世代は先行世代から枝分かれする「バルーン型」として、ある後続世代は新たなプラットフォームとしてそれぞれ分類されていく。このような見取り図の立て方そのものは、出版から五年以上経った今もなお注目すべきかもしれない。

 とはいえ確認すべきは、濱野が「アメリカ/日本」の二項対立においてアーキテクチャを論じていることである。初めに、インターネットから発生したウェブというプラットフォームについて押さえておこう。アメリカ型の設計においては、ウェブ上に設計されたグーグルが新たなプラットフォームになり、そこからさらにブログなどウェブ2.0とも呼ぶべき後続世代が発生していく。他方で日本型の設計においては、ウェブに組み込まれる形でBBSが設計され、そこからさらに2ちゃんねるなど独自の後続世代が発生していったのである。そしてアメリカ型のブログと日本型の2ちゃんねるとでは、信頼を重んじる個人主義と安心を重んじる集団主義との差異が明確に現れている。このことは、同じSNSであるフェイスブックミクシィについても言うことができるだろう。日本型SNSであるミクシィの特殊性を、本書は閉鎖性、強制的関心、繋がりの社会性といった言葉とともに説明している。

 次にMMO‐RPGから枝分かれする形で発生したセカンドライフと、2ちゃんねるから枝分かれする形で発生したニコニコ動画について見ておこう。アメリカ型の仮想空間サービスであるセカンドライフは、実際にユーザたちに体験を共有させる「真性同期」を採用し、それゆえに閑散としてしまったと言われている。他方で日本型の動画コメントサービスであるニコニコ動画は、ユーザたちに体験の共有を錯覚させる「擬似同期」を採用し、それゆえに人気になってしまったと言われているのである。擬似同期は真性同期とは異なり「いつでも祭り」の状態を捏造し、言わば「いま・ここ性」を複製するに至ったと言うことができるだろう。もちろん非同期の2ちゃんねると疑似同期のニコニコ動画には微妙な差異があるが、いずれも日本的な繋がりの社会性が色濃く現れた設計であることには変わりない。以上のように、濱野はその論旨の殆どを「アメリカ/日本」の二項対立において整理しているのである。

 

 しかし二項対立の図式は分かりやすいがゆえに、いくつかの疑問を読者に生じさせずにはおかない。たとえば、本書はボーカロイドである「初音ミク」とケータイ小説である美嘉『恋空』を分析し、特に美嘉『恋空』について「操作ログ的リアリズム」の到来を宣告している。しかし、ボーカロイド文化とケータイ小説文化の微妙な差異については曖昧なままである。というのも、ボーカロイドというコンテンツを支えるニコニコ動画的「疑似同期」と、ケータイ小説というコンテンツに現れたツイッター的「選択同期」との差異は、本書の「アメリカ/日本」という二項対立から外れてしまうからだ。ケータイ小説が結局のところ先鋭的文化としては退潮し、代わりに「ボーカロイド小説」なるものがひとつの流行になっている現在、私たちは両者の関係について改めて問い直すべきかもしれないのである。

 かつて柄谷行人は、アメリカなど欧米との比較において日本特殊論を語ることのイデオロギー性を指摘した。一方で彼が評価したのは、日本の日本性を中国や韓国との関係において地政学的に問うていた坂口安吾であり、身近で現実的な他者を通して自己を捉えようとする倫理的態度だったと言えよう。私たちは、今こそこのことを思い出す必要があるかもしれない。たとえば私が気になっているのは、中国のSNSや韓国のSNSとの関係において見える日本のSNSの姿であったり、そこから改めて「疑似同期」の意味について考えることであったりするのである。

私的ボカロ良曲まとめ ――2014年1月&2月

電ポルP「スキスキ絶頂症」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22879165

 

ピノキオP「それぞれに人生がある」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22748403

 

tilt「プラスチックボイス」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22648333

 

なぎ「clock work」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22687257

 

niki「Close to you」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22749154

 

まふまふ「永眠童話」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22765167

 

ぽてんしゃる0「月に戯言」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22815244

 

みきとP「東京駅」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22784743

インターネットに善はあるか? ――TVアニメ『ガッチャマンクラウズ』について

 TVアニメ『ガッチャマン クラウズ』(2013)は、言わずと知れた『科学忍者隊ガッチャマン』の長編TVシリーズ最新作である。しかし、本作は『科学忍者隊ガッチャマン』『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』『科学忍者隊ガッチャマンF』の三部作(1972~1980)とは世界観も物語観も大きく異なり、主人公の属性も男子青年から女子高生に変えられている。このことは、1870年代から2010年代までに起こった日本社会の変化と無関係ではないだろう。事実、監督の中村健治は製作にあたって次のような問題設定を掲げていた。

「世界は今、2つの新たな局面に差し掛かっています。1つ目は、有史以来初めて、僕らの心がネットにより可視化された事。可視化された心が起こす様々な問題や騒動をどう捉えていいか解らず、個人も社会もただただ戸惑っています。2つ目は、拡大した僕らの世界はあらゆる分野が細かく専門化され、1人の人間ではその全容を理解する事が不可能になっている事。それでも僕らは、1人の優秀なリーダーが全てを抱えてくれると盲信しています。この2つの事象は偶然なのでしょうか? 可視化された僕らの心は、何か良い事にも使えるのではないでしょうか? その事を考え、『GATCHAMAN CROWDS』という作品を描きたいと思います」

 こうした課題意識が、本作の世界観や物語観に多大な影響を与えていることは疑い得ない。たとえば、本作のヒロインである爾乃美家累は「世界の時計をアップロードする」ためにSNS「GALAX」と人工知能「総裁X」を開発している。それらは、細かく専門化された諸分野に対して可視化された我々の心をマッチングさせるサービス、ただ1人のリーダーがその全容を把握すること抜きで社会を運営する機能になるだろう。その思想は、開発者である累が「1人のリーダー(LORD)は要らない」という考えから「LOAD GALAX」と名乗っていることにも現れている。累は、単に総裁Xから「情報を読み出す者=LOADする者」に過ぎないというわけだ。

 もちろん、爾乃美家累の思想はいくつかの問題を孕んでいると言えよう。たとえば、累は特殊能力「CROWDS」を選良集団「HUNDRED」のみに与えることにより、明らかにHUNDREDの全容を把握するリーダーになってしまうのである。累が「1人のリーダーは(LORD)は要らない」と考えている以上、このような立場は意識的にせよ無意識的にせよ自己矛盾以外のなにものでもないはずだ。それゆえ物語後半のトラブルは、HUNDREDを巡る累の曖昧な態度から発生している。とはいえこの矛盾は、最終回の累が全てのGALAXユーザーにCROWDSを与えてしまうことで解決する、その程度の問題でしかないだろう。

 より根本的な問題は、ネットによって可視化された我々の心が何か悪い事にも使えてしまうということである。このことを象徴するベルク・カッツェは、累にCROWDSを与えつつ挑発を繰り返し、途中から累に成りすますと「総裁X」を奪い取って人間社会に混乱と暴動を与えていた。カッツェの「生命を挑発し混乱させ、相争わせる事に特化した能力」は、我々の心が持つ醜い側面を代表しているかのようだ。物語後半のトラブルは累の曖昧な態度から発生したが、それを作品終盤に至るまで増大させていたのは他ならぬカッツェの悪意だろう。そしてこの両義性は、エピローグにおいても解決することのない深刻な問題なのである。

 では、どうすればいいか。ここで重要なのは、我々の心から醜い側面だけを除去することなど決してできない以上、ネットによる心の悪用だけを規制することもまた決してできはしないということである。おそらく、ネット規制は善の側面も悪の側面も封じ込めるような帰結しかもたらさない。だからこそ、TVアニメ『ガッチャマン クラウズ』の主人公でありガッチャマンの一ノ瀬はじめは、ベルク・カッツェを殺害してしまうのではなく共存していくことを選び取ったのである。ある意味で本作は、我々の善の象徴である一ノ瀬はじめと悪の象徴であるベルク・カッツェの折衝を描いた、そのような作品であるように思われる。

 

 ところで、ここで次のような疑問が浮かぶ向きもあるかもしれない。ただ1人の優秀なリーダーというものが不要になってしまった世界では、もはや「ガッチャマン」のようなヒーローさえ不要になってしまうのか。

 むろん、答えはNOである。ネットにより可視化された我々の心は、経験的な権力問題に介入して「1人のリーダー」を下支えすることは可能だろうが、観念的な権威課題に介入して「1人のヒーロー」を下支えすることは難しいだろう。実際、作中における我々の心は一ノ瀬はじめとベルク・カッツェの善悪二元論には介入できなかったのである。ここで我々は、TVアニメ『ガッチャマン クラウズ』が日本の政治家を描きながらも、日本の象徴者については全く言及しなかったことを思い起こしてよい。以上を鑑みれば、本作におけるガッチャマンを日本的象徴者の隠喩として読み込むことも容易に思われる。そして日本的象徴者とは、要するに天皇と呼ばれる者たちのことである。